前編

生徒の自主性を尊重する教育を。

第130回放送

金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校 校長

中澤 宏一さん

Profile

なかざわ・こういち/1965年、宮城県仙台市生まれ。東北学院高等学校から東北学院大学に進学。1988年4月、宮城県の公立学校の教員に採用され、2020年3月31日まで勤務。その間は公立学校の教員、教育委員会の職員、東北大学の非常勤講師などを務める。2020年4月から金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校の校長先生に着任。

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Tad 今回のゲストは金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校(以下、金沢大学附属高校)校長の中澤 宏一さんです。最近、度々お会いするんですが、「こういうキャラクターの校長先生もいらっしゃるんだな」と思うくらい、すごくフランクで。
原田 校長先生というだけで緊張していたんですが、中澤さんのお顔を見ると、なんだかこちらまでにこにこしてしまいます。
中澤 どこに行っても「金沢大学附属高校の校長先生というイメージとは、ちょっと違いますよね」とよく言われますが(笑)、自分の中では褒め言葉として捉えていまして、そういう意味でもわが校のイメージを少しずつ変えていく力にしていきたいなと思っています。
Tad 金沢大学附属高校というと、石川県民の方なら聞いたことがあると思います。あらためて、金沢大学附属高校はどういう学校なんでしょう?
中澤 わたしは宮城県の生まれですから、正直に言うとまったく知らない学校でした。たまたま縁があってこちらに来てみて、いろんなものを紐解いていきますと、すごい歴史・すごい実績等々が出てきました。簡単に申し上げますと、学校が出来上がったのは終戦間近の頃、科学技術者をなんとか養成したいと「特別科学学級」というものを作りまして…言葉を選ばずにお話しすると、英才教育と言いますか科学者を生み出す学校として発足したんです。ところが、残念ながら戦争に敗れ、その後もしばらくは続けてきたんですが、やはり時代とともに役目が終わったということで、科学学級は閉鎖されることになります。ただ、せっかくそういう学校を作り上げてきたのだから、それを残していこうと、在籍していたお子さんたちをほとんど集める感じで、現在の学校の原型が昭和22年5月に発足しました。今も生徒が少ないですが、その時もものすごく少数だったので、当時は「昭和の松下村塾を目指そう」ということだったようです。教官が生徒に教えこむのではなく、生徒と教官が学びあって何か新しいものを作っていくことを目指してきた学校だったようなんです。それがわが校の源流になっていまして、今年で75年目を迎えました。
Tad そんな歴史があったんですね。
原田 知らなかったですね!
Tad すごいですね。現代の我々からすると「受験が難しい」とか…
原田 敷居が高いというか、特別な学校なんじゃないかとか思ってしまっていますが…
中澤 それがわが校の最大の課題であり、悩みかもしれません。
Tad え? そうなんですか?
中澤 はい。どうしても「敷居が高い」とか「特別な学校」と言われることが多くて、なかなかみなさんに知っていただけなかったり、初めから「特別な学校だから自分とは関係がないんだ」と思われたりしてしまって、どうも選択肢の中に入れてもらえない。それがむしろ悩みになっています。ここまでの歴史があまりにも重すぎるということなのかなと感じています。
Tad 「東大を目指すなら金大附属」みたいな、そういうイメージもあったり…
原田 そうですよね。
Tad とにかく成績優秀者は金沢大学附属高校にトライしてみよう、というような雰囲気も、ないわけではないのかもしれないんですが、中澤先生がご覧になる附属高校は、また違う側面があるということなんでしょうか?
中澤 はい。超難関大学と言われるところにぜひ進学したいというお子さんが入ってくるのも事実なんですが、そうではなくて、「自分たちがある程度、自由に時間を使える学校」というところに目を向けてくださったお子さんたちもここを選んで来てくれて、その時間を有効に使っています。たしかにいろんな実績を持っている学校であることには間違いないと自負しておりますので、そこで学んだことを武器に「自分がやりたいことがある大学・学部」に進んでいって、自分を磨きたいというお子さんが入ってきているのも事実なんです。ただ、先ほどから申し上げているとおり、年齢が上の方になればなるほど、「あそこは特別な学校だよ」とか、「特別な人しか行かないし、行けないんだよ」とか、「あそこに行ったら東京大学や京都大学に行かなきゃいけないんだよ」とおっしゃられるんです。
Tad ちなみに学生たちが「自由に時間を使える」というのは、どういうことなんですか?
中澤 開校以来の校訓に「自主自律」という言葉があります。自分を律することができる人間を目指すということですが、それは何かを与えられるのではなく、自由の中でそれを自分で磨き、見つけていくということ。生徒たちに我々教師は「ああしなさい、こうしなさい」といまだに言いませんし、学校の規則も、もしかするとこれ以上ないくらい緩いのかもしれません。
Tad そうなんですか。
中澤 それが本当の意味で自由なのかというとそうではないんですが、あんまり縛りのないなかで、自分自身で時間を使ったり自分を磨いたりすることができる学校、そんなイメージの「自由」ですね。
創立記念祭(文化祭)で2年生が本格的な歌舞伎に取り組む。この活動は代々自主的に引き継がれている。
原田 生徒の自由な活動をサポート、後押しするようなことも、学校としてはなさっているんでしょうか?
中澤 いえ、逆に、何もしません。
原田 何もしない?
中澤 もっと言うと、時間と場所を子どもたちに与えます。そこは学校で保証します。「そこで何かをしなさい」、「こういう時間にしなさい」とこちらが言うのではなく、この時間に、自分が今何をすべきなのか、何をしたいのかを考える、そういう時間を与えられる学校を目指しているという感じですね。
Tad たとえば、そういう機会・時間をいただいた生徒さんたちはどういうことをされるんですか?
中澤 学校に外部からいろいろな案内をいただくんですが、それを「スコラ」という活動にあてます。子どもたちに学校としてその情報を提供しますが、それに参加するか否かは先生に許可をもらってやるというのではなく、自分たちでそこにアプローチをしてもらいます。そのときに、自分の持っている力を世の中のためや人のために使う気持ちを持ってくれたらいいな、くらいのことは言うんですが、それ以外のこと、いわゆる「いかにも学校が言いそうなこと」は言わずに、紹介だけするんです。
原田 たとえば、こういうコンテストがあるよとか、こういう賞があるけどチャレンジしたい人はすればいいし、でも、それは学校に報告する必要もない、ということですか?
中澤 はい。
原田 じゃあ実際に学校側が知らないで、そういうものに生徒さんたちがチャレンジして、先生が後から「え、こんなの出てたの⁈」っていうこともあるのですか?
中澤 はい。そうした驚きの連続と言ってもいいくらいですね。
その他には、たとえば学校がある平和町地区にお年寄りを対象にした「平和町カフェ」を作って、学校に足を運んでいただこうとしたり。残念ながらコロナ禍に入ってリモートの形になっているんですが、ご年配の方にうちの生徒たちがパソコンを使って人とやり取りができるようなアシストをしながら横のつながりを作っていったり。わが校は地域の避難所にもなっているんですが、「日常からそうやって学校に足を運んでいただいていれば何かあったときに学校に来やすいんじゃないか」という子どもたちの発想がそこにはあって、とても驚きましたし、非常にうれしかったです。クリスマスには地区に生徒たちが出向いてクリスマス会をやって、近隣のお子さんを集めたりして。その様子を地域のお年寄りの方々が見て、「久しぶりにこんなに子どもたちが集まっている様子を見て幸せだ」とおっしゃったようです。そういうプロデュースができる子たちが人のために何かをやる方向に向かっているのが、わたしとしては非常にうれしいですね。
学校が立地する平和町地区の「夏祭り」に企画段階から関わり、当日の運営も行った。冬には「クリスマス会」も企画。
Tad コンテストに応募するような、大人が用意した器ではなくて、自分たちが街づくりに参加して、地域のコミュニティづくりとして必要な場所を創りあげているんですね。「自律」というのはそういうことだったのかと、とても心に響いています。それが校訓と言ったらその一言で済むのかもしれないですが、やはり何か秘密があるんでしょうか? 生徒さんたちに「そこまでやっていいんだよ」と刺激したりとか…
中澤 そうですね、「自分たちで最初から“ここまで”と限界を決めるのは、やめてね」という話をときどきします。
原田 「こんなことをやっちゃだめだよ」というふうには決めないということですね。
中澤 「どうしてもそれは」ということはストップをかけますが、それがない限りは「まぁ、いいんじゃないの」と。子どもたちっていろんな意味でよく「限界」という言葉を使いたがるんです。「先生、もう僕、限界です」って(笑)。でも、それは今やっている方法が限界を迎えているだけであって、方法や考え方を変えたら、それは限界じゃなくなるよね、ということを彼らは理解できる。これはわたしが彼らに対して尊敬している部分です。自分にそれができるかというと正直、難しいだろうなと思いながら彼らの動きをみていると、「校長先生、これはこういう形でやり方を変えます」と報告をしに来ます。若者って時間を与えたり自由に発想させたりすると、我々が考えている以上のものを創りあげることができる。自分が教員生活を振り返ると、「あれをしなさい」、「これをしなさい」、「このためにこれをしなさい」といちいち全部言ってしまって、子どもたちの発想を奪っていたんじゃないかなと反省しています。そんなことを今、子どもたちに教わっています。
Tad なるほど。
原田 先生のほうが生徒から学んでいると?
中澤 はい。先輩から教わった言葉なんですが、どういう学校を作りたいかというときに、「生徒が生徒を育てて、教師も生徒が育てる。だから学校は生徒が作るものなんだよ」と。うちの学校はそれができるんじゃないかなという気がしていて。まさしく今お話ししたように我々は生徒に教わっています。
Tad 生徒さんたちが自主活動に没頭しすぎるということはないんですか?
中澤 没頭するんですよ(笑)。没頭するから力も発揮できると思うんですが、今あの子たちに何が欲しいって聞くと「時間が欲しい」と言います。あれもやりたいしこれもやりたい、そして勉強もしたいと。だから「24時間じゃ足りないです」と。自分の高校時代を考えると、時間が欲しいといっても、そういう時間ではなかったなあと思うと、本当にすごい子たちが育ちつつあるんじゃないかと思って、これは多分、うちの生徒だけではなくて、高校生ってそういうパワーを持っているんだろうなという気はしています。
学校が立地する平和町の清掃に自主的に取り組み、地元の方々と共に地域の一員であることを自覚した。
原田 それは先生が宮城県でお仕事をされてきた中でも感じる部分があったわけですよね。
中澤 感じました、本当に。震災を体験していまして、避難所になった学校で一番力を発揮したのは生徒たちです。地区によってはそこの地区にいる子供たちの保護者は働きに行っていて、残っているのは自分たちしかいないという状況もありました。子供たちに「自分たちがやらずしてどうする」という思いが出ていて、人の生き方とはこういうことが大事なんだなと思うことがありました。
Tad 社会を学び場にしている学生の皆さんの底力を感じるお話でした。

ゲストが選んだ今回の一曲

「金沢大学附属高等学校校歌」

「わたしがこの学校に来て2年間、卒業式では国歌も斉唱せず、来賓も入れず、時間も短く、という状況で、校歌も歌わず、となるところだったのですが、保護者や同窓生の方から『校歌だけは歌わせてやってくれ』という声をいただきました。『特に3番を』と。室生犀星先生が作られた歌詞なんですが、室生先生がお話ししているとおり、卒業した後、ここを思い出す時間からさらに未来が見えてくる。そういう学校になってほしいという思いでこの校歌を作ったそうです。子どもたちがこの校歌をそらんじて歌えるような学校にしてほしいと思いますし、これが脈々とずっと続いていることこそ大事にしていきたいと思っています」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校の中澤 宏一校長をお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 わたし自身が今まで子どもたちに「ああしなさい」「こうしなさい」と型にはめていろいろ言ってきたので、それが子どもの可能性を摘んでしまったんじゃないかなと反省しました。また、本当に今まで敷居が高いと思っていて、そこで自分の思考が停止していた金大附属高校ですが、どんな学校なのかすごく興味がわいてきました。
Tad 限界だと話す生徒さんに別の方法があるかもしれないよねと声をかけられるというお話がありましたよね。こういう言葉をかけてあげることが、子どもたちの力や可能性を信じるということなんだろうなと思いました。ましてや大人たちが勝手に限界を作ったり、線を引いてしまったりしがちだと思います。部下を持つ上司の方々や社員を持つ経営者の方々、それから原田さんのようにお子さんを持つ方々にとって、いろんな気づきのあるお話だったんじゃないかなと思います。

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