後編
震災を体験して変化した教育観。
第131回放送
金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校 校長
中澤 宏一さん
Profile
なかざわ・こういち/1965年、宮城県仙台市生まれ。東北学院高等学校から東北学院大学に進学。1988年4月、宮城県の公立学校の教員に採用され、2020年3月31日まで勤務。その間は公立学校の教員、教育委員会の職員、東北大学の非常勤講師などを務める。2020年4月から金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校の校長先生に着任。
Tad | 今回のゲストは前回に引き続き、金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校(以下、金沢大学附属高校)の中澤 宏一校長先生です。前回のお話にものすごく感銘を受けました。 |
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原田 | 先生ご自身も日々、生徒さんから教えられているというお話がすごく印象に残りました。 |
Tad | 中澤先生は宮城県仙台市のお生まれで、金沢にいらっしゃる前はずっと東北にいらしたんですね。 |
中澤 | はい。生まれも育ちも、仕事も、ずっと宮城県仙台市です。 |
Tad | お仕事は一貫して教育の現場で? |
中澤 | そうです。 |
原田 | 東日本大震災も実際に体験なさって、語り継いで活動をなさっているとお聞きしています。 |
中澤 | はい。震災のあったあの年度に初めて学校の現場を離れて教育委員会に勤めていました。3月11日はちょうど長男の中学の卒業式でして、中学校を卒業したら携帯電話を買ってやると言っていました。それで携帯ショップに行ってまして。そしたら…今思えばそれが緊急地震速報だったんですが…なぜか店内に同じ音が一気に鳴りだしたんです。何のことか分からずにいたんですが、店員の方がすぐに店から出てくださいと言うんです。「ええっ?」と思った瞬間に、あの揺れが来ました。震度7と言われていますが、それ以上がないというだけの話で、とにかくものすごい揺れでした。時刻は14時46分でしたので近くの小学校の下校時間だったんです。その子たちがもう立っていられない状況でしたので、「ちょっとこっちに来なさい」と言って、集めてみんなでしゃがんで。非常に長い地震でした。それが終わって、とにかくあなた方は家じゃなくて学校が目の前にあるから学校に帰りなさいと言ったんです。ところが子どもたちは震えて歩けないような状況でしたので学校まで連れて行って。それで、自分の家に戻ろうという時だったんですが、もうすでに信号も点いていない。停電していますから。地面の所々も割れている状況でした。何が起きたのか、宮城県が今どうなっているか、とにかくまったく分からないわけです。 |
原田 | あぁ… |
中澤 | 停電でテレビも映らない状況で。夜になってラジオのスイッチを入れましたら、自分が初めて勤めた町が壊滅したと知りました。女川原子力発電所のある町なんですが、「町が壊滅」って、どういうことなんだろうという思いでいっぱいでした。とんでもないことが起きているようだということがなんとなくわかって、歩いて2時間くらいかけて職場まで行ったんです。そしたら各中学校が避難所になっているので散ってくれと言われまして。そこに行ったときは満員の状態でした。もう、何をどうしていいのかわからない。体育館には避難されている方もいますし、隣のスペースにはご遺体が運ばれてくるという状況です。その中で迷っている時間もなく、とにかく次々と目の前で起こるいろんなことに対応していました。あの1週間は、記憶がほとんどないですね。 |
原田 | 前回、避難所の中でも子どもたちがすごく活躍していたというお話がありました。 |
中澤 | わたしが担当したのは中学校でしたので、地域の中学生が避難者として来たんですが、「ここに列を作ってください。物資が来たら、必要なものを手前に置いてください。しばらく使わないものは奥に置いてください」と言うんです。我々のような大人ですと、整然とすることを優先するので、来た順番に奥から詰めると思うんです。ですが子どもたちは違うんです。「使うものを手前に置きましょう、これはしばらく使わないよっていうものは奥に置きましょう」と。これが多分功を奏したと思います。我々が「整然と並んでください」と言ってもきっとなかなか並んでくれませんでしたよ。やはり子どもたちが声をかけると、我々大人が逆に聞こうとするんです。給食の配膳も彼らは慣れてますから、衛生にも気を遣いながら、順繰りに回っていって。我々大人は、もしかするとあんなふうにはできなかったのかもしれません。 |
原田 | 「大人が子どもを守るべき」という思いが大人の中にありますが、子どもに助けられる経験というのは、そういった非常事態に起こるんですね。 |
中澤 | それまで我々は「子どもたちを教えよう」とか「子どもたちに〇〇をしてやろう」という気持ちを持っていた気がするんですが、あの子たちはもう十分にいろんな経験をして、身についていることがあるんだなと思いました。むしろ我々がそれを表面に出させないような教育をしてきたんじゃないかと感じて、なんとなく、前回もお話しさせていただいた、「自主自律」とか「自由」というものを子どもたちに与えた方が、みんなのためになるんじゃないかと思ったんです。ここが原点だったのかもしれないですね。 |
Tad | 先生ご自身の教育観のようなものが変わる一大事だったんですね。 |
中澤 | いわゆる「教える」ということがわたしたちの仕事だと、ずっと思ってやってきたんですが、彼らの持っているものを引き出すとか、活躍の場を与えるとか、思い切って頼ることが大事だと思いました。人って頼られると自分の力以上のことを発揮してくれるものなんだなという気がしました。そして子どもたちは公平公正であることがわかりました。ちゃんと人にいきわたるように考えて物資を渡していました。大人たちは平気で「うちは10人家族だから10人分ください」と言ったり、「子どもは本当に10人いるんですか」と聞いたりする。子どもたちが言うと「あ、ごめん、今日ここに来てるのは5人」というふうに、大人も子どもたちには嘘をつけないんですよ。だから、子どもたちを守る時期が終わったら子どもたちにも力を貸してもらおうというスタンスの方がうまく回っていくことが多いんじゃないかなと思いました。そうすると、学校というのも、もしかするとそうしていくべきなんじゃないかと思ったんです。 |
原田 | そんな中で縁もゆかりもなかったこの金沢に来ることになったんですね。公募という形で校長先生としていらっしゃったわけですが、いきさつをお聞かせください。 |
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中澤 | 金沢大学附属高校という学校のことは、前回もお話ししたとおり、それまで一度も聞いたことがありませんでした。ところがいろいろ調べていく中で、やはり自由な校風、「自主自律」を目指す学校であると知りました。その時の自分の教育観にとてもピタッとはまったんです。あとは、宮城県は伊達藩で、あちらも「伊達62万石」というフレーズでよくお話をしますが、やはり「加賀百万石」というのもよく聞くフレーズで親しみがありまして。父親が和菓子職人だったんですが、たまたまこの話をしましたら、「我々の憧れは加賀と京都。和菓子職人であれば、一度は訪れてお菓子作りをしてみたい」と言うんです。わたしも一人っ子なので、勝手に家業を継がなければならないと思っていましたし、教員になってからも、この地を離れることはないなと思っていたんですが、自分の考えていることとか、父親のその一言で背中を押してもらって。ものすごく何か大きな志を持ってきたというわけではないというのが、正直なところです。 |
Tad | いえいえ。先生が金沢大学附属高校にいらっしゃって、ご自身で感じた教育観だとか、震災の経験を経て変わってきたお考えが実際にピタッとはまったということなんですね。 |
中澤 |
子どもたちには「聞く力」があるんだなということを思いました。聞く力というのは、言われたことを守るということではなく、聞いたことを自分なりにフィルターに通して咀嚼し、それを自分の中でどう生かすかを実践できるということです。実は震災の後に、当時は高校の教頭をしていたんですが、子どもたちが泣きながら、「昨日、仮設住宅に行ったら、あるおばあちゃんが、なんでわたしなんかが生き残ったんだろうねぇ、あんなに若い人たちが死んじゃって、わたしが死ねばよかったんだよと言われて、何も返す言葉がなかった」と話してくれました。そこでわたしは「いや、いいんじゃない? 言葉を返す必要はなかったんじゃない?」と言ったんです。「そのおばあちゃんにとっては、聞いてもらえることがすごく力になったと思うよ」って。 「聞く力」のことを今まであんまり考えたことがなかったんですが、こんな力を高校生は持っているんだなと思いました。時代の先頭に立ちたいとか、人の役に立ちたいとか、最近はイノベーションという言葉も聞きますが、特にわが校の子どもたちは、前回お話しさせていただいたように、平和町にいるお年寄りの話を聞くだとか、小さな子どもたちと一緒に活動するといった無理のないことができる。自分が宮城で何となくおぼろげに思っていたことが、目の前に現れてきたように感じて、金沢に来て本当によかったなという気持ちです。 |
Tad | 中澤先生としては、今後、金沢大学附属高校をどんなふうにさらに伸ばしていきたいとお考えでしょうか? |
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中澤 | うちの学校に来ると、超難関大学に行かなければならないとか、〇〇学科に行かなければならないっていうのはいろんな場面で言われるんですよ、わたしも。でも、そうではなくて、やはり自分が進みたい道、研究したい学問のある学校を目指し、そこでさらに自分を磨いて、石川をもう一回見直し、北陸を見直し、日本全体に目を向けてほしい。うちの学校はこれまでも文部科学省の「スーパーグローバルハイスクール」研究開発校に指定され、今年も「ワールド・ワイド・ラーニング」という世界的な視野を持ったグローバルな人材を育てなさいという文部科学省の指定を受けておりますので、世界に目を向けて、その上で、やはり金沢に戻ろう、金沢から日本に発信しよう、いや、日本にいながら世界に何か貢献しようというような子どもたちを育てたいなと思います。それが間違いなくできる子どもたちですし、うちの学校だからこそ、小回りが利いて、そちらに進んでいけるんじゃないかと思っています。そういう意味でのイノベーションをしたいなと思います。 |
原田 | どんな高校生に育っていくのか、それこそ会社を起こす高校生も出てきそうな気がしますが。 |
Tad | すでにいそうですよね。 |
原田 | …いるんですか? |
中澤 | 起業したいっていう子がいます。昔のわたしだったら、もしかすると「それを考えている場合じゃないんじゃないか」と言うところですが… |
Tad | 受験もあるし。 |
中澤 | はい。その子は「自分はお金を稼ぎたい。そしてそのお金を自分が使うのか、それとも誰かに何かを与えるのか、そこから考えたい」と言っています。さらに「自分の生徒がお金を稼いできて、これを学校で使ってもらう。そんな学校ってないんじゃないんですか」って言うんです。そういうことを考えている子たちが一人、二人じゃなく、何人もいるんですよ。 |
ゲストが選んだ今回の一曲
asari
「Share」
「地震の話が多くなりますが、日本で初めて防災に関する学科ができたのが兵庫県の舞子高校というところで、阪神淡路大震災からたしか7年後にその学科ができました。今年その学科ができて20周年ということで、その記念イベントの中で初めてお披露目された曲です。このasariさんという方は宮城県塩釜市という沿岸部の方で、この方は、高校生が震災の語り部として活躍している姿や、高校生の当時の状況や思い出、考えなどを伝えているんですね。自分もそれを伝えるお手伝いをしたい、それを後押しする歌を作りたいという思いで作られた曲です。この曲の始まりの歌詞は、東日本大震災を経験した人間は共感できるような気がするんです。わたしも震災の時に街が白黒に見えて、ここに早く色を付けたいという気持ちになりました。活躍している子どもたちを元気づけ、子どもたちの活動を後押しする曲であり、わたしの感覚にもピタッとマッチする曲として選ばせていただきました」
トークを終えてAfter talk
Tad | 今回はゲストに、金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校の中澤 宏一校長先生をお迎えしましたけども、いかがでしたか、原田さん。 |
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原田 | 中澤さんの子どもの力を信じる思いは、東日本大震災での経験がきっかけだったということでしたが、すごく胸に迫るお話がたくさんありました。Tadさんはいかがでしたか? |
Tad | 紙の上に丸を描くとき、自分自身を円の中心点にすると世界観が変わるっていうのは、円が今までと違う領域に広がるということなのかなと。そうすると、自分自身という中心点を動かす必要が出てきて、「ご縁」というのは実はそういうことなんじゃないかなというふうに感じました。金沢大学附属高校の生徒さんたちもきっと中澤先生や教員のみなさんから受ける言葉によって、自分自身という中心点が動くような、そういう環境によって円を大きくしていくのかなと思いました。 |