後編
ピンチを乗り越え、事業の裾野を広げる。
第103回放送
加賀電化工業株式会社 代表取締役社長
宮崎克洋さん
Profile
みやざき・かつひろ/1971年、石川県金沢市生まれ、横浜市育ち。1990年、成城学園高等学校から成城大学法学部に進学、1994年に卒業。『佐藤製薬株式会社』、『プルデンシャル生命保険株式会社』で営業職に就き、2005年、『加賀電化工業株式会社』(創業は1955年。石川県白山市。メッキ加工された金属部品を材料から一貫して生産)入社。2009年、代表取締役社長に就任。
加賀電化工業株式会社Webサイト
Tad | 今回のゲストは前回に引き続き『加賀電化工業株式会社』代表取締役社長、宮崎克洋さんです。EV車やスマートデバイスといった現代のプロダクトに欠かせないリチウムイオン電池、ディスプレイのフィルム作りに欠かせない金属ローラーを0.何ミクロンの単位で作られているというお話を前回うかがいました。最初は繊維機械向けの部品を作られていたこの会社がなぜそういった技術を磨くことができたのかという部分を、今回はお聞きしたいと思います。ところで、宮崎さんはワインバーを経営されているんです。 |
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原田 | 全然違う分野のお仕事もされているんです? |
Tad | わたしも度々お邪魔しているんですが、宮崎さんはワインについてもお詳しくて。 |
宮崎 | ご愛顧いただきまして、ありがとうございます。 |
原田 | ワイン好きが高じて? |
宮崎 | そうですね。ソムリエの資格を取りまして。そうは言っても本業は製造業ですから、これまでは特に店を構えるということはなかったんですが、2020年に金沢駅西に『ハイアットセントリック金沢』ができて、隣接する『クロスゲート金沢』でワインバーをする人を探しているということで、話が回ってまいりまして。当時の金沢駅のブームからするととても興味深いお話をいただいたなと思いました。当時は県外や海外の観光客が大勢来ていましたから、駅には専門性の高いワイン提供の場を設けることも必要だなとワインラバーの一人として思っていたんです。それできっかけがあったので始めてしまいました。 |
原田 | コロナ禍でご苦労もあったのでしょうか? |
宮崎 | そうですね。でもおかげさまでたくさんの方にご愛顧いただいて、本当にありがたく思っております。「お店を始めませんか」とお声をかけいただいた頃の金沢観光大ブームだった時と比べると、落ち着いてはいますが細々とやらせていただいております。ぜひよろしくお願いいたします。 |
Tad | すごく素敵なお店で『vin amour(ヴァンナムール)』というお店です。ぜひ原田さんも、リスナーの皆さんも足を運んでいただければと思います。 |
宮崎 | ありがとうございます。 |
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Tad | あらためてプロフィールを拝見しますと、宮崎さんは横浜育ちなんですね。 |
宮崎 | 今でも両親が横浜に住んでおりまして、母の実家が金沢で、母の祖父が『加賀電化工業株式会社』を創業しました。母が里帰り出産したので私は金沢で生まれましたが、一ヵ月後にはすぐにまた父のもとに行っておりますので、横浜で育っています。 |
Tad | 『加賀電化工業』の創業家に生まれたということではないんですね? |
宮崎 | 創業家ではありますが、母方の祖父が創業した会社ですね。父は東京で別の仕事をしておりまして。 |
Tad | それで、金沢の方に引っ越してこられたということですよね。何か経緯があってのことだったんですか? |
宮崎 | 父の住まいは横浜にあるんですが、東京で建築関係の会社をやっておりまして。社長業ということもありまして、祖父が年齢的に引退をする時に、当時の『加賀電化工業』の従業員から、父に引き継いでくれないかというお願いがあったということです。それで平成元年から父が社長業として『加賀電化工業』の方も見ていたんですが、父も年齢を重ね、後継者問題になり、長男である私に白羽の矢が立ったと。 |
Tad | なるほど。前回は超微細な金属ローラーを作られているというお話でしたが、会社の歴史を紐解くと、創業期は繊維機械向けのローラーを作っていらっしゃったんですよね。 |
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宮崎 | そうですね。今はメインが高機能フィルムを作るための機械部品になっていますが、十数年前までは売上の90%くらいは繊維機械部品を製造していてそのローラーも作っていたんですが、精度が今と全然違いますね。 |
Tad | 何倍くらい違うんですか? |
宮崎 | 寸法精度や表面の微細さで言うと、倍とまではいかないですが。繊維機械もそんなに簡単な部品ではないんですが、私たちが手掛けていたのは糸を作るための機械で、今も売り上げの10%強はこの機械です。 |
Tad | 元々売り上げの90%が今は10%強で作られていますが、技術的にはより深く、領域も高いレベルになっているわけですね。それから別の分野に移られるわけですが、何がきっかけだったんですか? |
宮崎 | 私は2009年に社長に就任しました。それまでは父親が社長だったのですがずっと東京におりまして、現場では祖父の代からいた番頭さんが基本的に会社を切り盛りしていたんですよ。経営の数字は社長である父が最終的にチェックしていましたが、現場のやり取り、営業のやり取りといったほとんどを番頭さんがやっていたんです。 |
原田 | すべてを知る存在みたいな方だったんですね。 |
宮崎 | ある意味で『加賀電化工業』といえばその番頭さんがシンボルだったんです。その後、2008年にその方が私たちのコンペティター(競合他社)と一緒に別会社を作ってしまって…。同じようなメッキ屋さん、同じような材料屋さんと共同で別の会社を作って、そちらにメインの仕事や職人さんといったメッキの幹部が流れてしまったんです。取引先にしても、何も知らない息子や常時いない社長の会社に比べたら、信頼のある番頭さんの方に流れるのは致し方ないですよね、客観的に見ても。それで我々は見捨てられたというか、仕事がなくなっちゃったんですよ。 |
Tad | 厳しい世界ですね。 |
宮崎 |
仕事もまったくなくなり、売り上げも90%なくなっちゃって、加えてリーマンショックがその年の秋に来まして、世界的にも厳しい時代に入っていきました。父が東京で建築関係の会社をやっていたんですが、そちらも大変厳しい状況に入ったので、こちらの方をまったく見れなくなったんです。それで私が社長に就任する形になったわけです。私は社会人になってから営業職しかやっていなくて、当時は会社のこともあんまり理解していないですし、とにかく仕事がなくなってしまいましたから、まずは営業をしたんです。それこそローラー営業です。 しかし、ローラー営業して話があった仕事が、結局は面倒な仕事なんですね。そういった仕事ならあったんですよ。微細なものを作るというのは、それだけ手間暇がかかるので簡単ではないですから。でも、私はそれを難しい仕事とは思っていなくて、知らないからその仕事を取りたくて。職人さんには「できない」と言われるんですが、とにかく「やってくれ」とお願いして。やるしかなかったんです。生きるためにはやるしかない。リーマンショックの影響も大きくて会社も基本的には開店休業。工場で作るものがない。作るものがないんだったら、今やれるものをやるしかない。元の仕事はもらえないし。 |
原田 | そうですよね…。 |
宮崎 | 当時は、お金は返せないし税金も払えないし、社会保険料も払えないし。毎月頭を下げながらやっていたので、何とか売り上げを上げないといけなかったんです。で、分からないから、とにかく社員に「やればできる」と。今でこそ分かっちゃったからとんでもない分野に手を出してしまったと思っていますが(笑)。1年くらいかけて大変微細なものを作る技術が少し可能になりました。完全ではなかったですがちょっとできるようになったので、その経験を基にさらに難しいことをクリアしていく繰り返しがついに花開いて、今の微細なローラーの仕事になっていったんです。それがたまたまEV用のキーパーツを作る機械だったり、今でいう5Gを普及するためのコンデンサという機械の部品だったり。先見の明でこの分野を選んだのではなくて、生き残るために他が面倒でなかなか手を出さないところに素人だから勝手に手を出しちゃって。それについてきてくれた職人さんがいたから、生き残れたんです。 |
Tad | なるほど。当時は何でこんな難しい仕事を社長は取って来ちゃったの?っていう… |
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宮崎 | そうですね。でもそういった声に私自身は聞く耳を持っていなかったんです。今はいろんなことが分かったから、どれだけ大変なことかというのも分かりますが。 |
原田 | ついてきてくれたっていうのは、「会社を、みんなを守るんだ」っていう宮崎さんの熱い思いに、「やるしかない」って思ってくださったということですよね。 |
宮崎 | いい表現で言っていただいて(笑)。そうだと思いますが、私の人格はその時、伴っていないですから(笑)。みなさんやっぱり不安だったでしょうし、周りを見てもすぐに転職できるような状況ではなかったですしね。 |
Tad | ましてやリーマンショックで不景気な状態で。 |
宮崎 | 元番頭さんの作った会社に行った方もいるんですが、でも行けない人は行けなかったですね。やっぱり変化には勇気が必要じゃないですか。その勇気が出なかった人たちが運よく残ってくださって、その残ってくれた人たちが新しい事業を作ってくれたというのはありますよね。 |
Tad | すごいストーリーですね。お話を聞いて鳥肌が立ちました。 |
ゲストが選んだ今回の一曲
キアラ・セトル
「This Is Me」
「私はワインを嗜むとことが好きですが、暇な時間にYouTubeで歌の上手い人の動画を見ることも好きなんです。この曲はここ数年で一番感銘を受けた曲です。元々ミュージカルも好きで、この『This Is Me』が挿入歌になったミュージカル映画『グレイテスト・ショーマン』も観たんですが。YouTubeでこの歌を発見して、聴くとあまりにも感動して毎回涙が出てきます」
トークを終えてAfter talk
Tad | 前回に引き続き、ゲストに『加賀電化工業株式会社』代表取締役社長、宮崎克洋さんをお招きしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。 |
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原田 | はい、会社が生き残るために勝負をかけた宮崎さん、社員のみなさんの決意、それが時代の波すら引き寄せたんじゃないかと思うような、そんなお話でしたね。Mitaniさんは、いかがでしたか? |
Tad | 技術開発というと、ゆとりのある企業が未来に向けてこういうものを作れるようになったらいいなという思いでやっていくものと思っていましたが、『加賀電化工業』は未来に向けてではなくて、今これを作らなくては生き残れないという状況で、ミクロン単位の表面精度の金属ローラーの生産に成功されたんですね。今ではそれが主力製品になっているというのがまたすごいですが、本当に会社を変えるのは、必死さとか真の危機意識なのかもしれないと強く感じられるエピソードでした。ありがとうございました。 |