前編

インプットとアウトプット、アナログとデジタルの間を繋ぐ。

第26回放送

株式会社アイ・オー・データ機器 代表取締役会長

細野昭雄さん

Profile

ほその・あきお/1944年、石川県金沢市生まれ。1962年、石川県立工業高等学校 電気科を卒業。『ウノケ電子工業株式会社』(現:株式会社PFU)に入社。1965年、金沢工業大学 情報センター職員などを経て、1976年、『株式会社アイ・オー・データ機器』(パソコン、家電、スマートデバイス周辺機器の製造・販売)を設立。経営の傍ら、1986年、一般社団法人『石川県情報システム工業会』を設立。会長として、地元IT産業の発展にも寄与する。2017年、ICT分野研究者の支援と地域スポーツの振興を目的とした公益財団法人『アイ・オー・データ財団』を設立。2017年9月より現職。
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Tad 今回のゲストは『株式会社アイ・オー・データ機器』代表取締役会長、細野昭雄さんです。ここで告白しますと、実は高校生の時まで『株式会社アイ・オー・データ機器』が石川県の会社であることを知らずにいました。全国に名を馳せる会社なので、まさかと。
細野 時々そんなふうにおっしゃるお客様もいらっしゃいます。
Tad 自分でも御社のハードディスクや、いろいろな製品を使っていたものですから。
原田 それだけ全国区の会社であるということですよね。
主力製品として展開するゲーミングモニタブランド「GigaCrysta(ギガクリスタ)」の液晶ディスプレイ。(イメージ)
細野 実は創業時は、北陸が繊維関係の一大産地でしたので、県内の関連ビジネスを5、6年はやっていました。ですから、東京や大阪に進出したのは創業10年目ぐらい。1980年の前半です。ちょうどその辺からパソコンが一気に普及し始めるんです。創業は、パソコンが本格的に普及する5、6年前の1976年なんですが、この年はスティーブ・ジョブズがスタートさせた『Apple』の創業年でもあるんです。
1976年の創業当時の写真。細野会長の自宅ガレージの作業場にて。
Tad パソコンのモニターや周辺機器などのイメージとして、「アイ・オー・データ」のロゴマークをよく見るんですが、創業期のビジネスというのは繊維関係だったんですね。
細野 最初は、繊維の機械にジャカードという織物の柄を出すカードに穴の開いたテープのようなものがありまして、その柄を修正したり、ジャカードにパンチする機械を制御したり、そういったことが創業時のメインのビジネスでした。
原田 それは元々手作業でしていたものを機械でなさるということですか?
細野 そうです。それをコンピュータで処理できるということです。それからテレビの画面に柄を表示して修正できる装置をコンピュータに繋いで、テレビの画面を見ながら柄を作ったり、修正したり、色を変えたりして、その結果を、パンチ加工に反映させて穴を開けるという感じです。機械はすでにあって、そこを電気的に接続するビジネスです。「SIer兼モノづくり」という形で5、6年の間、ビジネスの中心にしていました。
1979年当時に使用されていた、織物の意匠紙の柄を読み取る「カラー画像自動読み取り装置」。地元北陸で繊維産業が盛んであることに着目し、織物工場向け特注システムを開発した。
Tad 当時のお客様は、石川県や北陸が多かったのでしょうか?
細野 そうですね。ジャカードというのは当時、京都の西陣、それから柄の入っている襦袢が丹後産ということで、京都や丹後、それから都留市、桐生にも出張しました。繊維の特殊な産地は全国に分散してありましたから。
原田 当時としては画期的だったんでしょうか?
細野 割と同じようなシステムがなかったんです。当時、もちろんコンピュータはありましたし、「富士通」の「ミニコン」というのを、与信のない状態で『三谷産業』さんから購入させていただきましたが(笑)。
Tad ありがとうございます(笑)。それにしても、最初のお客様がそういった伝統産業の分野の方だったというのは、すごく意外ですね。
細野 そうですね。今、世の中すべてがデジタルだと言ってますが、そうじゃなくて、やっぱりあらゆるものは、最後はアナログです。アナログは消えない。人は生きていくからには最後はアナログなんだから、あらゆるものに「その間を」、という意味での「I・O DATA(アイ・オー・データ)」なんです。これは1(いち)と0(ゼロ)とも読めるし、インプット(I)とアウトプット(O)、つまり入力・出力とも言えるわけです。5年前、事業の構造の見直しを進める中で、ロゴも新しくしましたが、このインプットとアウトプットの間とか、アナログとデジタルの間、そこが当社のメインフィールドであるということは、おそらく創業当時から思っていたことだと思います。
社名ロゴの「I・O」の部分は、「1(いち)と0(ゼロ)」とも「インプット(I)とアウトプット(O)」とも読むことができる。
原田 細野さんにモノづくりへの思いを感じますが、ご自身は小さい頃から何かを作ることがお好きだったんでしょうか?
細野 小学校の時から、一応ラジオは作れましたね。真空管や部品なんかを買ってきていろいろやっていました。
原田 そうなんですね。昔から手を動かしながら何かを作るのがお好きな部分があって、それがずっと、これまでのベースにあるのかなというふうに、お話をお聞きして思いました。
細野 小学生の頃から成長していないのかもしれませんね(笑)。
原田 いつも面白い、楽しいと思える気持ちをずっと持ってこられたのかなと感じました。
Tad 今ではICT周辺機器の『株式会社アイ・オー・データ機器』という感じですが、最初のお仕事から現在のフィールドに徐々に移行されていく過程には、どんなことがあったんでしょうか?
細野 先ほどの繊維の装置が日本中に普及したとしても、限度があるんです。この装置が日本中でシェアが100%になったとしても、数十台、50台にもならない。もうすでに海外に展開が始まっていましたし、国内でこれをマーケットとして拡大するのは限りなく難しい。それと、やってきたことが繊維だけではないんだというのは、それまでにも感じていました。そうこうしているうちにパソコンというものが出てきた。最初はゲームっぽい用途で出てきましたが、「これはいずれビジネスになるから、新たな用途を開拓していこう」となったわけです。
ちょうどパソコンが普及し始めた頃でしたが、パソコンそのものは作りませんでした。そういう規模でもないですし、力もないですから。しかし、そうは言っても、パソコンを使う人にとって足りない装置が何であるかは、すでに繊維のシステムを作っている頃から、私たち自ら体験してわかっていました。先ほど言ったような大手メーカーの「ミニコン」はあるけど、カラーの表示装置は大手も出してないし、タブレットの入力装置すら当時はなかった。それなら、「ないものは作りましょう」、あるいは「接続しましょう」ということで、それを仕組みとして仕上げるのが当社の役割でした。
メインがミニコンからパソコンに切り替わっただけなんだなというのは、実はパソコンが出る前くらいから自分たちで体験していたからわかったことです。パソコンが出始めた時に、いきなりメモリも、外付けのストレージも足りないということがあっても、その辺は大手のメーカーはまだ目をつけておらず、彼らは毎年一機種くらい本体を開発するのに一生懸命でしたので、その周りを私たちに残してくれていたのかもしれません。だから参入できたんだと思います。
Tad パソコンやコンピュータそのものはいろいろな用途に使える汎用機ですよね。でも専用的な道具としての情報機器であれば、機能的にも過不足が生じる場合がある。そもそも汎用的なコンピュータ自体も、性能や能力が足りないこともある。会社のミッションとしてそれを補い、ないものを自分たちで作っていくことで、繋がっていないものも繫げていくんだということだったんですね。だから自然と移行されていったんですね。
細野 移行についてはあまり苦労しませんでした。ただし創業して5年目以降、もう少し後ぐらいになると、お金の心配をしないといけなかったんです。創業時は100%、注文をもらってから商品を作っていました。極端な話、「ちょっと前金をもらえませんか」と言っていたわけです。ところがカタログ製品にしていくと、先に注文をもらうことができません。お店に販売するといったことはあったとしても、最終ユーザーから先に注文を取るというビジネスじゃないので、一旦在庫をストックするための資金が必要になるわけです。後になって妻が、当時は私のことを心配していたと言っていました。今でもそういう話が出てきますね。
Tad ビジネスの中身や方法が変わったことで、キャッシュフローを考えなくてはいけなくなったということですね。その後、軌道に乗って成長していくにはどんなふうにステップを踏まれたんでしょうか?
細野 価格競争をするのではなく、アイデア競争の時期でした。全く同じメモリの外付けの増設にしても、各社がそれぞれ工夫して作るカテゴリーの商品です。今はどのパソコンに挿そうが、A社、B社、C社、どれを買おうが同じようなスペックで売ることになっているんですが、当時は一社一社がユニークな状態でした。それはつまり、ある程度開発資金を投入したとしても回りやすいという意味です。だから一定の資金力さえあれば、銀行から借金さえできれば、あとは回っていく、そんなスタートだったと思います。

ゲストが選んだ今回の一曲

Paul Anka

「Diana」

「三橋美智也、村田英雄、橋 幸夫、私はそんな年代ですが、当時近江町市場の近くに住んでいまして、金沢駅から宇ノ気まで気動車に乗って通勤していました。モノクロのテレビで観たアメリカの家庭生活やルート66の映像を見て憧れた彼の地の曲として、印象に残っています」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに『株式会社アイ・オー・データ機器』代表取締役会長、細野昭雄さんをお招きしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 今の時代、いろいろな仕事がAIにとって代わられるんじゃないかとドキドキするような時代ですけれども、デジタルの世界でお仕事をされてきた方が「アナログはなくならない」とおっしゃってくださって、ちょっとほっとするような気がしました。Mitaniさんはお話をお聞きになって、いかがでしたか。
Tad 『株式会社アイ・オー・データ機器』といえば、今はハードディスクや液晶モニターなどのパソコンの周辺機器で業界トップクラスのシェアを持っていらっしゃいますが、最近はスマートフォン周辺デバイス、例えばCDを入れてスマートフォンですぐに録音ができるというような、そういったものも出していらっしゃいます。刺激的なお話を伺う中で印象的だったのは、インプットとアウトプットの間、デジタルとアナログの間を繋いでいく、そういった社名に込めた思いというのは、自分たちが「パソコン周辺機器メーカーなんだ」ということではなくて、繋がっていなかったものを繋げて価値を作り出したいという思いだった、というところです。スマートフォンやタブレットの時代にも、新しい価値を繋ぎ合わせて価値を提供し続けられる会社なんだろうなと感じました。

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