前編

スポーツで地域を盛り上げるのための施策とは。

第112回放送放送

北陸スポーツ振興協議会株式会社 代表取締役社長

中野 秀光さん

Profile

なかの・ひでみつ/1958年、新潟県小千谷(おぢや)市生まれ。1980年から着物の家紋職人の3代目として従事した後、2002年に『株式会社新潟スポーツプロモーション(現・株式会社新潟プロバスケットボール。「新潟アルビレックスBB」を運営)』専務取締役に就任。2004年、「新潟アルビレックス(現・新潟アルビレックスBB)」の代表取締役に就任。2007年、『株式会社日本プロバスケットボールリーグ』代表取締役社長に就任。2016年、『北陸スポーツ振興協議会株式会社』代表取締役社長に就任。

金沢武士団Webサイト

インタビュー後編はこちら

Tad 原田さん、今や石川県にもプロスポーツチームがたくさんできていますよね。今回は、プロバスケットボールチーム「金沢武士団(カナザワサムライズ)」を運営する、『北陸スポーツ振興協議会株式会社』代表取締役社長の中野 秀光さんにお越しいただきました。
石川県のプロバスケットボールチーム「金沢武士団」(カナザワサムライズ)。
Tad プロフィールによりますと、中野さん、最初は家紋職人だったんですか?
中野 そうです。
原田 そう言われてみると、職人の雰囲気がありますね。
Tad ご実家がそうだったんですか?
中野 はい。初代は祖父になります。
Tad そこからどうやってバスケットボールのお仕事に繋がっていくのかをお伺いできますか?
中野 年上の姉が2人いまして、自分は親にしてみたらやっとできた跡継ぎだったものですから…。田舎では僕みたいな者を「末っ子バカ長男」と言いまして(笑)、見事に道楽息子に育っちゃったわけです(笑)
原田 かわいがられて育ったということでしょうか(笑)?
中野 はい(笑)。本当にわがままな子に育ちました。じっとしていることがとても苦手で。母方にはプロスキーヤーの叔母や、甲子園に出た叔父がいまして、僕はどちらかというと母方の血のほうが濃かったのではないでしょうか。中学3年生の時に、父に「おまえはじっとして家紋を描くような子じゃないから、好きなところに行っていい」と言われました。つまり、僕を跡継ぎにすることを諦めたんです。僕はすごく嬉しくて。父は後に婿を取るという前提で姉に家紋の修業に行かせました。
バスケットボール部の顧問をしてくださっていた中学校の先生に進路を相談したら、「新潟市の市立白山高校に体育科が1クラスできるから、体育の道を目指さないか」とお声をかけていただいて。僕は大したプレーヤーでもないですし、大した経歴もなかったのですが、運よくその高校に入学させていただくことになりました。そこから、一気に自分の人生が変わっていったような感覚がありました。
新潟県はバスケットボール王国と言われて、インターハイを制覇する高校がこれまでに何十回もでている県なんです。入学した高校のバスケットボール部のメンバーは3年生が6人、2年生が2人しかいませんでした。同じ新潟県の三条高校に勝たなければインターハイに行けない状況なったんですが、なんとその6人の先輩が、三条高校を破り、インターハイに初出場してしまったんです。
原田 ということは、この6人というのは少数精鋭で相当厳しい練習をされたんですか?
中野 先輩方はその苦しい練習に耐えきれなくて、たくさん辞めていったという伝説がありました(笑)。2年生は2人しかいませんでしたし、僕ら1年生11人がそこに加わることになったわけです。
そんな中、福岡でインターハイがありまして、先輩方が先生と一緒に、秋田の強豪校で憧れの能代工業高校(現・能代科学技術高等学校)に練習試合を申し込んだのですが、名も知られていなかったということで相手にされませんでした。ところがなんと組み合わせを見たら、3回勝つと準決勝で能代工業と戦えるということが分かって。
原田 念願が叶うんですね!
中野 はい。それが、厳しい練習に耐えてきた先輩たちがあれよあれよといううちに勝ち抜いて、とうとう憧れの能代工業と試合をすることになりました。そのことが『月刊バスケットボール』で記事になりました。タイトルに「憧れ」とありまして、これが僕の人生に大変影響を与えることになります。
原田 中野さん自身は当時1年生で、進級してからもバスケに打ち込む毎日でしたか?
中野 はい。僕は大したプレーヤーではなかったですが、本当に仲間に恵まれました。2年生の時は春の選抜に、インターハイは残念ながら三条高校には負けましたが、3年生の時はインターハイのベスト8まで行きました。
インターハイに行く数日前に、新潟市の下宿先へ夜9時くらいに帰ったら母が正座して待っていたんです。「今日はあなたに大切な話がある」と。姉が修業先に嫁に行くことになったと言われまして、嫌な気がしたんですよ(笑)。それでストレートに「家を継いでくれんか」と言われました。僕も運よく3年間インターハイに出させていただいたし、大学を卒業したら家に帰るよと言うと「すぐ修業に入れ」と言われまして・・・。
夏休みに恩師に「先生、何とか助けてください。せめて大学4年間行きたいんです」と言ったら、「何を言ってるんだ。3代目だぞ。家を継げ」と言われて、全くかばってくれませんでした(笑)。その代わり、せっかく全国大会に出てきたんだから、「父親に、夕方4時になったら後輩の面倒・指導にあたらせてくれと言え。それを条件に家を継げ」と言われました(笑)。ここから僕の道楽ぶりが加速するわけです。
原田 (笑)
中野 朝は5時くらいに起きて子どもたちと一緒に山に入って走ったり、夕方から高校の体育館をお借りして、夜9時頃まで練習したりしました。父の下で修業をしたのですが、午前中は正座をして竹の筆で丸を書く練習をすると手が震えるんです。今までたくさん動いていた若造ですから。だんだん、丸の絵がバスケットボールの絵になったりしました(笑)
Tad原田 (笑)
中野 それを見ると父が「もういい、体育館に行ってこい」と。そう言ってくれるのを待っているわけです。通常体育館は午後4時から行けばいいんですが、2時くらいから行って、ボール磨きをして、早く選手が来ないかな、なんて考えていたんです。
そしたらある時、中学の当時の校長先生が体育館に来られて、練習が終わったらちょっと校長室に来てくれと言われました。「中野さんは一生懸命練習してくれるのは分かるけど、本当にうちのバスケットボール部をメジャーにしたかったら、もっと強くしたかったら、バスケットボール以外の社会貢献をしなさい」といきなり言われたんです。「市役所からある依頼が来るから、絶対断っちゃだめだよ」と言われて、その数日後、市役所の方で僕の憧れの方から電話が来ました。
新潟県小千谷市っていうのは、複合のオリンピック選手をたくさん輩出している町なんですが、2度の東京オリンピックで日本の旗手をされた方からいきなり僕に電話があり、「中野さんは白山高校体育科の卒業ですよね。体育を教えるのは得意ですね?」とおっしゃられました。体育指導委員という制度があるのですが、ぜひそれを一緒にしてほしいと言われたんです。40年位前ですが、「日本である球技を広めたいと国から依頼が来ています。中野さん、球技得意でしょう?」って言うから「大好きです!ぜひ」と言うと「1泊2日で資格を取ってきてくれ」と言われまして。それで「はい!わかりました!ところで何ていう競技ですか?」って聞いたら、ゲートボールだったんです。
原田 ゲートボールですか!
Tad 意外だなぁ。
中野 このゲートボールに一生懸命取り組んだことが、その後「新潟アルビレックス」に声を掛けられることに繋がるんです。
なぜかというと、ご存じのように、サッカー不毛の地で「アルビレックス新潟」が、なぜ4万人以上のお客様を入れることができたか、というその手段と、たまたま僕がゲートボールを普及させる手段が同じだっただけなんです(笑)。つまり、キーワードは「お年寄りとお孫さん」です。
原田 セットなんですか?
中野 そうなんです。何をしたかというと、最初、朝5時に起きて村の神社の境内に行って、ゲートボールの準備をして、おじいちゃんやおばあちゃんたちを待ってたんです。すると「これは何だね?これは遊び?」と言われたので、「そういうようなもんです」って言ったら、「そんなに遊んでられないんだ。畑があるから!」ってみんな帰っちゃったんですよ。
「しまった」と思って、次回行くときに市役所の人にお願いして、幼稚園児を集めておいてくださいって頼んだんです。そしたら先に幼稚園児が来てくれて、一緒に僕とゲートボールをやって楽しんでたら、そしたら自分のお孫さんとおじいちゃん、おばあちゃんたちが一緒にゲートボールをやりはじめて、それが本当に楽しかったらしいんです。それである時、市役所の方に「3世代ゲートボール大会をやりましょう」と提案しました。お孫さん、お母さん、おばあちゃんもしくはおじいちゃんの3人で組むのですが、すると1000人以上の出場者が集まりました。実はこのおじいちゃん、おばあちゃんたちが、その後、大きな役目を果たしてくれるんです。
その後、小千谷の町が元気ないから「スポーツで町を元気にしようよ」ということになり、さしあたって地元のバスケットボールを強くしたいということで市長からお声をかけていただきました。それから、たまたま僕が高校1年生だった時の3年生で、当時の熊谷組っていうチームのキャプテンをされていた先輩のところに行った際、当時、彼は全日本チャンピオンでしたので、「ぜひ小千谷の子どもたちに夢を与えてもらえませんか」と話したんです。テレビや雑誌でしか見たことのないプレーヤーたちに子どもたちの目の前でダンクシュートをやってもらいたいと頼んだはいいものの、その帰りの新幹線で地元にアリーナがないことに気付いたんです。
原田 そうなんですか!
中野 なおかつ、ダンクシュートをするにはバネの入ったプレッシャーリリースリングというのが必要なんですが、小千谷はそのリングすらない町でした。そこで、隣の長岡市からリングを借りることになるんですが、大雪の降る町なので、2階建ての体育館に入れなきゃいけない。しかも重さが1.3トンもあり、アンカーをおろしても800キロ。それを入れる搬入口も見つからない。
リングをクレーンで入れようとするんですが、窓が壊れちゃうんです。そしたら校長先生が授業中に「先生方、地元の青年たちが苦労してるから、ぜひ力を貸してやってくれ」と放送を流してくれまして。それをみなさんの力でとうとう廊下に入れたんです。
すると若者たちが、「僕たちはバスケットボールだけが目的じゃないんだ。とにかくみんなに夢を与えるんだ」と言い出して、ただ試合をするだけじゃなくて、何か演出をしようと。アメリカのNBAは会場を暗くして、スポットライトを浴びてダンクシュートをやるっていうシーンがあるから、それを真似しようと。そこにいた市長や市議会長が、「一体あのゴールはどうしたんだい?」と僕らに聞いてきて、「実は小千谷にはないので、長岡市が貸してくれました」と言ったら、「これは小千谷も買わなければ」と言う声がでました。そうすると、若い人たちが「リングなんてあってもしょうがない。アリーナがほしい」と言い始めて。
原田 お~。
中野 その半年後に、当時の小千谷市の市長から電話が入りまして、「小千谷にアリーナを作ることになったが、嘆願書を書けるか」という内容でした。こういったイベントに苦労した話をたくさん書いてくれと言われました。それで提出したその半年後に56億円かけてアリーナを作ることが決まりました。そのこけら落としがきっかけで、今度はアメリカのNBAのOBチームが小千谷にやってくるわけです。そして・・・
原田 申し訳ありません!ついつい聞きいってしまいましたが、少々長くなってしまいましたので、このお話しの続きは次回にお聞きかせいただきたいと思います。
Tad 次回も引き続き、よろしくお願いいたします。
「金沢武士団」(カナザワサムライズ)の試合中のワンシーン。

ゲストが選んだ今回の一曲

エイトMAN

「サムライバスケ」

「金沢武士団のテーマ曲です。僕がこちらに就任させていただいた当時、アーティストのエイトMANさんが作ってくださったんです。わたしの孫もこれが好きで、CDも贈りました。いつも歌ってるよと息子から連絡が来ます。僕もこの歌が大好きで、ぜひこの歌を久しぶりに聴きたいなと思いました」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに、プロバスケットボールチーム「金沢武士団」を運営する『北陸スポーツ振興協議会株式会社』代表取締役社長の中野 秀光さんをお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 中野さん、本当に奇跡を起こす人だなと思いました。でもその陰には発想と努力があるんだなというのもよく分かりました。
Tad お話がすごすぎて思わず聞き入ってしまいました。バスケットボールに打ち込んだ青年時代の中野さんが、継がなくてよかったはずの家業に呼び戻され、でもスポーツ振興への道へ道へと引っ張られていかれたことは、日本のスポーツ振興の歴史そのものみたいな感じだなあと思いました。NBAが小千谷市に来ることになったという、ものすごく続きが気になるところでお時間が来てしまいました。次回も必聴です。

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