後編

たくさんの人の心を動かし地域のスポーツを盛り上げる。

第113回放送放送

北陸スポーツ振興協議会株式会社 代表取締役社長

中野 秀光さん

Profile

なかの・ひでみつ/1958年、新潟県小千谷(おぢや)市生まれ。1980年から着物の家紋職人の3代目として従事した後、2002年に『株式会社新潟スポーツプロモーション(現・株式会社新潟プロバスケットボール。「新潟アルビレックスBB」を運営)』専務取締役に就任。2004年、「新潟アルビレックス(現・新潟アルビレックスBB)」の代表取締役に就任。2007年、『株式会社日本プロバスケットボールリーグ』代表取締役社長に就任。2016年、『北陸スポーツ振興協議会株式会社』代表取締役社長に就任。

金沢武士団Webサイト

インタビュー前編はこちら

Tad 原田さん、前回の中野さんのお話、すごかったですよね。家業である家紋職人の道に呼び戻されながらも、バスケットボールやスポーツ振興の事業に自然と引き戻されていかれたというお話でした。今回は、なぜその後「新潟アルビレックス」やbjリーグ(日本プロバスケットボールリーグ)、そして「金沢武士団(カナザワサムライズ)」の経営へと道が開けていったのかというところもお聞きしていきたいと思っております。今回のゲストは、前回に引き続きましてプロバスケットボールチーム「金沢武士団」を運営する、『北陸スポーツ振興協議会株式会社』代表取締役社長の中野秀光さんです。
「金沢武士団」(カナザワサムライズ)はB3リーグに所属している。
Tad 前回は、小千谷市にアリーナができて、そこにNBAが来ることになったという思わせぶりなところで終わりになってしまいましたが、どのような経緯でNBAが来ることになったんですか?
中野 思い返すと、地元の若者たちや行政のみなさん、商店街の方たちの「スポーツを通して街を元気にしよう」というエネルギーがすごく集約されたんだなと感じます。スポーツを通した街づくりと言うととてもかっこよく聞こえますが、当初は余裕がありませんでした。ただ憧れみたいものから始まって、ちょっと前から熊谷組が来てくれたり、秋田県の能代工業高校(現・能代科学技術高等学校)も来てくださったり、最終的にバスケットボールの強豪校として知られる能代工業を地元の子どもたちが破り、インターハイで優勝したりしました。

そういったエピソードに、逆に子どもたちに当時のわたしたち大人が勇気づけられた、ということが本当の話だと思います。夢中になってしまうんですよ。事あるごとにみんなが抱き合って涙を流して、それがどんどんエネルギーに変わっていきました。最終的にNBAのOBチームから、ロサンゼルス・レイカーズを引退したばかりのジェームズ・ウォージーさんや、歴代のとてつもない選手たちが小千谷の町にやってくるわけです。とはいえ、コンサートをやっても200枚、300枚くらいしか売れない町です。1000円、2000円のチケットがそれぐらいしか売れない町で、1枚1万円のチケットを6000枚売ることになるわけです。
原田 その方たちを呼んでくるのにそのくらい必要だということですね。
中野 もちろんです。正直、地元の商店街の方には、地元商店街にジャンボジェット機を着陸させるより無理だ、と言われました。
Tad そうなんですか!
中野 ところが前回もお話した、ゲートボール大会に来てくれた1000人以上のおじいちゃん、おばあちゃんたちが、なんと僕らの活動を知って年金をはたいてくれて2000万円以上集まったんですよ。
原田 すごい!「中野さんのためならやるぞ」って言ってくださったんですね。
中野 僕のためというか、地元を愛する人たちのおかげだったとは思うんですが、そのやり方、そのスタイルがきっかけで、その後、僕が「新潟アルビレックス」という日本初のプロバスケットボール球団にお声をかけていただくことになります。

そのときテレビ中継がありまして、それを見ておられた「新潟アルビレックス」のオーナーで当時の社長であり、ユニバーシアードで世界で2位になったヘッドコーチの河内敏光さんという方が私の自宅に直々に来られまして、「社長をやらないか」と突然言われたんです。家紋職人ですから頭が真っ白になりました。

「やったことがないので無理ですよ」と言いましたら、「バスケットをやるというよりも、街づくりをするというような感覚で来ればいいんだよ」と言われまして。それで僕は家紋職人の仕事もやっていましたから、「とりあえず毎日通わせてください」とお願いしました。最初の年はお給料をとてももらえるようなものじゃないので、一年間修業をさせていただくことにしました。朝行って、夜10時に帰ってきてから家紋を夜中に描いて、朝になったらまた通う、というような生活でした。
Tad 並行してされていたんですね。
中野 そのうちお給料をいただくようになりまして、それと同時に社長に就任しなさいと言われました。そこから僕のわがままが始まります。当時はスーパーリーグという実業団リーグに唯一「新潟アルビレックス」だけがプロ球団として参戦していました。対戦相手は上場企業の「トヨタ」や「三菱」と、とてつもない企業ばかり。選手だけでも数億円使えるようなチームです。うちはフロントの社員30人を入れても一億ちょっとくらいしか使えませんでした。

なんとか公式戦でお客さんを満杯にしたいなと思っていて、まずサッカーの集客の仕方について勉強していたのですが、残念なことにサッカー場があってもバスケットボール場っていうものが当時なく、会場となる場所を探すために田舎周りをしようと思い立ちました。新潟市にある『デンカビッグスワンスタジアム』というところにある看板の500社くらいを回ったら、「新潟はバスケットボール王国だけど今はサッカーの時代だ」と言われて、一件もスポンサーが取れませんでした。

悔しくて、小千谷で協力してくれた小出町という街に行って、商店街の方たちに集まっていただいて「ここで公式戦をやらせてください」と言ったらみなさんびっくりしちゃって、「こんな田舎に?」って。700人も入ればいいくらいの35年前の古い体育館だけど、煮て食おうが焼いて食おうが好きなようにしていい、前座試合をやろうがおじいちゃんやおばあちゃんの踊りをやろうが、飲み食いも好きなようにしていいと言ってくれたんです。

すると、奇跡が起きました。公式戦の当日、蓋を開けてみたら会場に1000人以上入っていて、もう人が入りきらないんです。当時のエースに長谷川誠という選手がいたんですが、彼が突然ロッカールームに走ってきて「今日の試合中止になりますよ」って言うんですよ。「いったい何が起きたんだ」と体育館に行ったら、なんと最前列は茣蓙。その後ろに柔道の畳が敷いてあってちょっと高くなって、後ろが椅子、そして立ち見という状況でした。

すると、その最前列の真ん中で、ハチマキを巻いて熱燗飲んで、もつ煮を食べてる人がいて。当時、公共の体育館でアルコールは絶対禁止なんです。僕はそのおじさんに「すみません」と声をかけようとしたら、地元の商工会の青年部の方が僕を羽交い絞めにして、「社長、いいんだよ。あなたたちはこの街を元気にするために、新潟市じゃなくてこんな田舎に公式戦を持ってきてくれた。これはまちづくりだから、僕らが町長に頼んで、うちの街にある酒蔵の酒をここで飲ませたいんだ。許可をくれ」と。気が付けばあたりがもつ煮臭かったんですが、どうやらその場で煮込んでいたようで!さすがに勘弁してくれと言ったら、町長が「消防団を3人立たせているから大丈夫だよ」って(笑)
原田 すごいお話ですね(笑)
中野 泣いちゃいましたね。本当に嬉しくて。そして、奇跡が起きるんです。絶対に勝てるわけがない対戦相手だった「三菱」に一点差で勝っちゃうんです。帰りにキャプテンが、「今日これを開催してくれた商店街の若者たちがどこかで反省会をやるって聞いているんですけど、僕らも行っていいですか」って言うから、じゃあ行こうかと居酒屋に行ったら、選手たちが全員そこに流れ込んで、そこにいた人たちを胴上げしてくれたんですよ。

その時に僕はヒントを得ました。「これでいいんだな」って。いわゆる、そのまま巡業方式でやっていこうと思ったんです。そしたらどこに行っても満杯になる。田舎にJリーグは来てくれないけどプロバスケットチームは来てくれると言って喜んでくださる人がいて、年間10ヶ所くらいは田舎でやりました。そこから僕の判断で、当時の「アルビレックス新潟」(サッカーチーム)の社長に、朱鷺メッセというコンベンションホールに5000席のスタンドを買ってくださいとわがままを言ったんです。

すると知事のところに行って「俺が半分買うから年内に検討してくれ」と言ってお金を半分ずつ出してくれて、なんと5000席のスタンドを毎回そこに組むことになったんです。

すると社員の方や新潟県のバスケットボール協会の方に「君は小千谷にNBAの1万円のチケットを6000枚売ったかもしれないけど、毎回バスケットを観に5000人も来ると思う?」と言われました。僕が手ごたえを感じていたのには理由があって、僕らが回った10カ所の町の人たちにコッソリ「もしこうなったら来てくれる?」って頼んだら「行くよ!」と言ってくれていたからです。結果、40人乗りのバスが50台以上そこに駆けつけてくれて、なんと新潟市の朱鷺メッセの90パーセント以上が新潟市以外のお客様で埋まりました。

さらに、そこで日本初のバスケットボールの試合のラジオ中継をやったんです。当時はラジオ中継って大変でした。アナウンサーは亡くなられた深澤弘さんでした。それを聞いていた新潟市の方がチケットを買ってくれて、翌々週のホームゲームではチケットが15分で完売しました。毎回5000人のお客さんが集まるようになって、新たな歴史の始まりでした。
原田 すごいですね。その状況から、金沢にいらっしゃったきっかけはなんだったのでしょうか?
中野 その後、全国からいろんな方が視察に来られたんです。僕はリーグの社長をやりなさいと言われまして、それが49歳でしたから「新潟から出たこともないんですけど」と言ったら「とにかく東北、四国、九州にJリーグを作れない時期に、安くても作れるプロリーグのbjリーグを立ち上げる。

お前がやった新潟方式を伝えてこい」と言われました。それからはほとんど地方回りをしていました。そんな時にチームがどんどんできていっちゃったんです。あるときFIFAっていう世界のリーグの方が来られて「日本にはNBLとbjリーグという2つのリーグがある。これを1つにしないとオリンピック予選に出場させない」という話になって、当時の日本バスケットボール協会から、「24チームで抑えてください」と言われたので、僕は24チーム目はどこかなと思っていたら、金沢の方たちが地元にバスケットボールチームを作りたいと言ってくださったんですよ。それがbjリーグ24チームで最後のチームです。だから本当に嬉しかったです。

ただ、残念なことに最初の社長が体をちょっと壊されて、オーナーから「3年間だけ金沢に行って地元の誰かを社長として育てて、また『新潟アルビレックス』に戻って来い」と言われました。僕は今6年目なんですけどね。
Tad 3年のお約束が6年になっちゃったんですか?
中野 はい。実は僕が「金沢武士団」の運営を引き継いだ1年目になんと23連勝してしまったんです。で、通常は1位のチームしかB2に昇格できないんですよ。ところがチェアマンから1ゲーム差で2位だった「金沢武士団」に「どうしても上へ上がれないか?」っていう連絡が来て。いや、僕は売り上げもないのでB2に上がったらとてつもなくお金がかかるので難しいと思ったんですが、石川のいろんな支援をしている方が「絶対上がった方が良いよ」とおっしゃってくださって。そこらへんが僕の判断ミスだったんですが、実際にはやはりものすごくお金がかかりました。で、僕の経営力がないばっかりに赤字が膨らんだんですが、もう一度B3に降りることになって、降りたらやはり黒字になりました。

もう一つは僕がbjリーグの社長をしているときに、大分県に「大分トリニータ」というサッカーチームと、「大分三好ヴァイセアドラー」というVリーグ(日本のセミプロバレーボールリーグ)チーム、『二階堂酒造』がやっていたフットサルチームがあったんですね。110万人超の県、まさに石川県と同じくらいの規模の県に4つもスポーツチームがあって、サッカーとバスケットのチームがどっちも潰れそうになったんです。それで僕がバスケットボールチームを四国の松山に移籍したところ一気に復活しました。だから僕は「金沢武士団」というチームを仰せつかって今やっていますが、もしかしたら「ツエーゲン金沢」の足を引っ張っているんじゃないかという心配があります。今、実業団も入れると石川県に8つのスポーツチームがあるんです。それがあるところに集中してしまうと大変なことになるっていうことを僕は経験しました。

実は「新潟アルビレックスBB」を新潟市から長岡市に移籍させているんです。それで駅前に5000人のアリーナを130億かけて作ったんですが稼働率は365日のうち90%なんですよ。そういうシンボルというものはこれからきっと必要になっていくでしょうし、サッカーはおかげさまでサッカー場がこれから建設されるというお話も聞いてよかったなと思っているんですが、僕ら「金沢武士団」がそれを邪魔してないかなという心配は少しありますね。

ありがたいことに石川県はバスケットレベルが大変高くて、小中学生だけでなく、今は高校生も強くなっていますし、そういう意味では可能性を秘めてる県です。ですから、僕たちがもっと強くなって憧れてもらえるようなチームにならなきゃいけない。まだまだ力が足りないですね。おかげさまで能登から加賀の方まで試合でうかがいます。やはり最終的には僕たちの拠点としてシンボル的なものができたら嬉しいです。
ホーム戦は金沢市総合体育館で行われている。

ゲストが選んだ今回の一曲

エイトMAN

「僕の頭の中に君が現れてから」

「アーティストのエイトMANさんに、ある時突然『中野さんをイメージした曲を作りました』と言われまして。それがこの曲です。家紋職人からある日突然バスケットというスポーツチームの社長になって、それから始まった詞だということです」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストにプロバスケットボールチーム「金沢武士団」を運営する『北陸スポーツ振興協議会株式会社』代表取締社長、中野 秀光さんをお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 新潟でのお話で、スポーツがどれだけその地域や人を元気づけるかっていうことも伝わってきましたし、「金沢武士団」がこれから石川の中でどうなっていくかっていうのも注目したいなと思いました。
Tad 小千谷時代、「新潟アルビレックス」時代の話をされている中野さん、僕は見逃しませんでしたが、実は少し涙ぐまれていたんですよ。
原田 そうでしたか!
Tad 僕も思わず目頭が熱くなるような想いでしたが、人一倍の想いがたくさんの人の心を動かして、数々の奇跡を起こされてきたわけです。「金沢武士団」と中野さんにもきっとこの先に奇跡がたくさん待っている…いや、その奇跡を石川県全体で一緒に作っていきたいと思わせてくれるお話でした。

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