MROラジオ開局70周年記念/北陸放送株式会社 次島雅之さん

第142回放送

北陸放送株式会社 ラジオ局長 ※2024年6月、取締役総務局長 兼 総合計画室長に就任

次島 雅之さん

Profile

1952年5月10日、日本海側で初の放送局「北陸文化放送」として開局、同年11月に「北陸放送」と改名。1956年1月、略称をMROと定める。2022年、開局70周年を迎える。

Tad この番組の放送も140回を超えまして、数々の企業の歴史やチャレンジについてうかがってきたわけですが…僕、ちょっと気づいちゃったんですよ。
原田 なんでしょう?
Tad 今年、MROさんが開局70周年を迎えるんです。
原田 そうですね。
Tad 「北陸放送」、つまりMROの歴史もこの70年間、イノベーションの連続なのではないかということで、今回はMROさんに無理を言いまして、この方に来ていただきました。『北陸放送株式会社』ラジオ局局長(※オンエア当時の肩書きです)の次島 雅之さんです。あの、ラジオ局局長ということは、偉い方なんですよね…?
次島 いえいえ全然! 大したことではないですよ。
Tad いや…!(笑)
原田 ラジオ局をまとめていらっしゃる…?
Tad この番組の生殺与奪を次島さんが握られているというか…次島さんがOKなら、OKになると思うんですけど…
原田 そうですね。
次島 末永くよろしくお願いします(笑)
Tad原田 ありがとうございます!(笑)
Tad ところで、「北陸放送」は70年前に日本海側で最初の民間放送局として開局されたそうですが、これってすごいことですよね。
次島 そうですね。先輩方はすごく大変だったと思います。
Tad 最初は今の本多町ではないところに本社があったんですか?
次島 はい、そうですね。最初は武蔵の現在の『かなざわはこまち』のあたり、その後は現在の『金沢エムザ』のあたり、その後に南町に移って、1968年、昭和43年に現在の本多町にやってまいりました。
Tad 振り返ると、実はいろいろな場所を転々とされてきたんですね。
次島 そうですね。とはいえ、ここに来てもう54年になりますので。
原田 当時の「北陸文化放送」の社屋の写真が今、手元にあるんですが、すごく重厚感のある建物ですね。
開局一周年当時の社屋は当時の『金沢丸越百貨店』の四階にあった。
次島 そうですね。昔の高島屋とか三越みたいな感じで(笑)。
Tad 『金沢丸越百貨店』の場所にあった頃の写真ですか?
次島 はい、そうですね。
原田 ここにJOMRと書いてありますが、これはMROとはまた違うんですね?
次島 はい。これはコールサインで、金沢の放送局がJOMR、七尾がJOMOと言いまして、そこから足してMROとなりました。
原田 なるほど。 MRとOをくっつけて。
次島 はい。ですから、おじいさんやおばあさんたちのなかには、昔はMROのことを「MRさん」と言ったりする方もいらっしゃったと聞いています。お隣の「北日本放送」はKNB、「福井放送」はFBCと、だいたい頭文字からとってますが、略称がコールサイン由来なのは全国でも珍しいタイプですね。
原田 親しみをもって「MRさん」と呼ばれていたということですよね。開局当時のことというと70年前になるわけですが、たくさんご苦労があったという話もありました。まずその第一声というのは、どんな状況だったんだろうと思います。
Tad 当時はまだノウハウだってあるわけじゃないし、技術者の方々もすごく知恵を絞られていろんな調整をされたと思います。
次島 今回は、この「Innovation Now」という番組タイトルに合わせて当時の様子がわかる音源をご用意いたしました。60年前に開局10周年を記念して作られた特番で、その時に開局の時の模様を振り返っています。ぜひお聞きいただきたいと思います。
当時の送信所(左)と放送機器(右)
音源ナレーター (開局10周年記念特番より)昭和27年、その4月22日、午後2時2分。金沢市武蔵ヶ辻『大和ビル』、現在の『丸越デパート』4階のスタジオから、「JOMR、こちらは『北陸文化放送』であります。周波数700キロサイクル、出力500キロワットで試験電波を発射中であります」の第一声が、押野送信所のアンテナを通って、日本海沿岸初の民間放送として北陸の空に飛びました。なにしろ独立の放送局として初めての放送ですから、この第一声が出るまでは関係者は大変なことでした。その当時の様子を北山技術局長はこう述べております。「10年ひと昔と言いますが、当時はラジオの放送局を作る、それだけのもとに、言わば“群盲象を撫ず”というようなことがありまして、いったい音というのはどういうふうにして出るのだろうか、それがどうやって電波に乗るのか、それを、電波に乗せる場合にはどういうふうにすると一番ノイズがいいのだろうか、という今日考えれば極めて単純なことなんですけども、そういうことに非常に困ったと言いますか、分からないということがございました。テレビの場合にもやはり同じことなんですが、“ものを作る”ということは非常に苦しい。特に、初産というものはいつも苦しいものだと思うんですけども、そのために各方面の技術者はもちろんですが、大変苦労いたしました。
一つ、笑い話があるんですが、初めて送信機に灯が入りまして、スタジオから音が流れてくるとき、いったい試験電波っていうのはどうなるんだろうかということさえ分からない頃でして、大変なミスもございました。それからようやく電波が出まして、スタジオ一斉に灯が入り、送信機も動いておりますが、これがこのままうまく動いてくれるかどうか、ということに非常に不安な面がございました。当時の設備というのは演奏設備ではテープレコーダーというものが民間放送を支えているんだと言われていまして、実際にテープレコーダーがずらりと並んでおりまして、これから次々と番組に出てまいります。ところがテープレコーダーというもの自体が未開発な時分で、いろいろなところで(扱いが難しいものだと)言われていました。したがって、途中で音が切れたり、あるいはテープの変形で非常に変な音がするということもございました」
Tad すごい音声をお持ちいただきました!60年ぶりにこの声が電波に乗って流れたということですよね。
次島 そうですね。日の目を見ましたね。
Tad 10周年のときに10年前を振り返ってのお話だったわけですが、まさに送信機や、スタジオに灯が入る瞬間というお言葉でした。MROさんとして開局のこの瞬間の生みの苦しみ・大変さを経験して、その後70年の間、「イノベーション」というキーワードで振り返るとどんなことがありましたか?
次島 技術面で言いますと、FM補完放送という形でワイドFMでの電波を出しましたし、あとはradiko。スマホで聞けるような環境を作った、といってもプラットフォームに乗っただけなんですが。番組で言えば1965年には「市場ジョッキー」という、近江町市場の野菜、魚の値段などをご紹介する番組や、1974年にはラジオカーを中心に、中継の番組として「日本列島ここが真ん中」っていう番組が放送開始されました。そういったところがソフトなイノベーションになりますでしょうか。
Tad 技術の進歩に合わせて番組作りも進化しているというか、中継ができるようになって、近江町に実際に行かれて番組を作られたわけですよね。
原田 そうですよね、県内どこに行くかわからないっていうところからスタートするラジオカーっていうのがすごく斬新な企画だったんじゃないかなと思います。
当時のMROさんのラジオカー。県内どこに行くかわからないというところから企画をスタートする。
次島 それこそお祭りの中に飛び込んだりお宅にお邪魔したりとか、いろいろなことやってましたね。
Tad 普通のお宅にお邪魔するんですか?「MROです、今流れますけど」みたいな感じで…?
次島 そうです。
Tad へぇ~!
原田 そういう距離感の近さがやっぱりラジオの魅力ですよね。
Tad そうですね。次島さんご自身は、ラジオにご出演されるのは今回初めてなんですか?
次島 今回で3回目です。
原田 3回目!結構出ていらっしゃるんですね?(笑)
次島 (笑)。いや、1回目は小学校1年か2年の時で、それこそ「日本列島ここが真ん中」だったんですが、僕が誕生日の時に友達が集まってくれて、叔母さんもいて、叔母が「MROに電話するよ!」と言って、それで番組に電話をかけて、「うちの甥っ子が誕生日なんで今からみんなでハッピーバースデーと校歌を歌う」と。それが最初のラジオ出演になります。
Tad すごい!
原田 お茶の間の声とか歌声がそのままラジオから流れてくるという…
次島 はい。気軽にMROラジオに電話するっていうそういう背景ですから、今思えば、それだけリスナーと番組の距離が近かったんだなと思いますね。
Tad MROと次島さんご自身も運命的につながっているのかなと感じます。ラジオ局局長としてMROというラジオ局を今後どういうふうにしていきたいですか?
次島 昔からMROラジオの歴史に根付く言葉として、「ラジオは人間である」という言葉があります。この意味を追い求めて、地域を愛する放送局として存在していきたいですし、午前のワイドと午後のワイドといって、今、原田さんにも出ていただいておりますが、午前は情報中心に、午後はエンターテインメント中心に、狭い趣味の世界でもいいんですが、いろいろな番組をラインナップして、多くの人に楽しんでいただきたいと思っています。
Tad ありがとうございます。Tad Mitaniの番組「Innovation Now」は、そのなかでどういう位置づけなんでしょうか?
次島 ここ最近で一番のイノベーションだったんじゃないでしょうか。
Tad原田 (笑)
Tad ありがとうございます(笑)。今回のゲストはMRO、北陸放送株式会社ラジオ局局長の次島雅之さんでした。どうもありがとうございました。
~次島さん退場~
Tad 原田さん、ラジオって言うと、テレビ放送が生まれたり、インターネットが生まれたり、その都度新しいメディアが生まれる度にラジオというメディアの存在意義が語られる、そんな対象でもあると思うんですが、ラジオならではの良さっていうものを感じられることも多いと思うんですよ。
原田 はい。
Tad ラジオというメディアに対して原田さんはどのように捉えていらっしゃるんですか?
原田 そうですね。伝え手としてちょっとお話しさせていただくと、わたしはテレビで長く仕事をしておりましたので、ラジオはここ7年くらい前からちょっとおしゃべりを始めているという感じですが、最初は伝え方の違いにものすごく戸惑いました。テレビというのは映っているものについてアナウンサーがしゃべるというメディアであるわけなので、逆に言うと映っていないものを話してはいけないと思っていたんです。でも、ラジオとなると視覚という手掛かりがない分、「いったい何をしゃべったらいいんだろう」「どうしゃべったらいいんだろう」と、ものすごく戸惑ったんですね。
Tad はい。
原田 いろいろやっていく中で「何をしゃべってもいいんだな」と、ある意味シンプルなことに気づいたんですが、それがわかったところでまた「じゃあ、何でもしゃべっていいという状況で、何をどんなふうに話そうか」ということに悩み始めました。でも、きっとそうするなかで、その人の感性とか、素の自分とか、そういうものがフッと言葉に乗ってくるんだろうな、それが相手に伝わっていって、みんなが共感したり、それは違うんじゃないのって思ったりすること、そこがラジオの面白さなんじゃないのかな、と最近気づき始めました。
Tad この番組も、経営者の方をお招きしたりしながら、その方の素の部分がフッと出てきたり、対話の中で生まれるものがすごく人間的で、身近に感じられたり、親近感が湧くようなお話をされたりして、そこがすごく番組の趣旨と、ラジオというメディアがすごくマッチしてる、あるいはフィットしているポイントなのかなという感じもします。
ラジオって、なんか不思議なメディアですよね。それが70年前の誕生のシーンから脈々とつながっていて、その中で市民の方との接し方もいろいろな形で変わってきて、人の温かみの部分が電波に乗って飛んでいるような、そんな気がしますよね。
原田 そうですね。すごいなって思うのは、先ほど聞いていただいた音源が60年前の音源なのにもかかわらず、その方が話している空間にまるで自分もいるように錯覚する。これはちょっとテレビではなかなかできない体験なんじゃないかなと思います。
Tad 確かに。音がセピア色でしたもんね。
原田 音はセピア色なんだけど、自分がそこに一緒にセピア色になって入ったかのような感覚。だからこの番組でもいろいろな経営者の方と話している内容を、きっとみなさんも同じ空間で聞いているような感覚で「あぁ~そうなんだ」と相槌を打ってくださっている。話し手の空気感を一緒に感じられるというのは、ラジオならではだと思うんですよね。
Tad そうですね。この番組も、今後も一層リスナーの方々と近い距離感で放送していきたいと思いますし、経営者のみなさんの素の部分もどんどん出していきたいなと。
原田 そうですね。Mitaniさん自身もラジオが大好きとおっしゃってますしね。
Tad はい、大好きですね。
原田 やっぱりその中で経営者の方と話ができるっていうのは喜びでもあるわけですよね。
Tad そうですね。意外と「あっ、そんなところがお悩みだったんだ」とか、「そういう気づきがそこにあったんだ」とか。
原田 改まって聞かれたときにはなかなか出てこないような話ですよね。
Tad はい。僕の素も確かにだいぶ出しちゃっていると思いますし、「今、Tadさん緊張してるな」とか、ひしひしと感じられるかなと思うんですけど(笑)。「Innovation Now」として、様々な現代企業のイノベーションを経営者の素の声とともに身近な距離感で今後もお届けしてまいります。
原田 はい。
Tad これからもよろしくお願いします。
原田 よろしくお願いいたします。

ゲストが選んだ今回の一曲

松任谷由実

「春よ、来い」

Tad 番組では、いつもゲストの方に毎回一曲、選曲していただいているんですけれども、今回は原田さんに選曲をお願いしました。この曲を選ばれた理由は?

原田 MROをはじめ民放ラジオ99局で「スピーカーでラジオを聴こうキャンペーン“WE LOVE RADIO”」というのを実施しているんですが、このキャンペーンのアンバサダーが今年デビュー50周年を迎える松任谷由実さんということで、一曲を選んでみました。ユーミンの曲といえば本当にたくさんの名曲があります。2月の北京オリンピックでフィギアスケートの羽生結弦選手のエキシビションをご覧になった方ももちろん多いと思いますが、このエキシビションの曲が「春よ、来い」だったんです。ユーミンが以前、あるラジオのインタビューで話をしていたのが、曲作りをする時、まず曲が浮かんできて、その曲のメロディーの中にある歌詞の情報を探しだして…

Tad 曲から作るけど、その中に歌詞のヒントを?

原田 はい。手掛かりというか、痕跡というか、そういうものを探し出して全体の歌詞を作るということをおっしゃっていたんです。羽生選手のエキシビションではピアノの演奏だけだったんですが、その歌詞の世界観みたいなものが目の前にうわーっと広がってきて、それが羽生選手の滑りとともに迫ってきて、胸がいっぱいになった思い出があります。ぜひそんな一曲を聴きたいなと思ってこの曲を選びました。

トークを終えてAfter talk

Tad 今回は『北陸放送局株式会社』ラジオ局局長の次島 雅之さんと共にMROラジオについてお話ししました。MROラジオ70周年の新しいキャッチコピーも印象的ですよね。
原田 「ツケテミツケテミ!」っていう、新しいキャラクターの「テミじぃ」がつぶやくあのワードがすごく耳に残りますよね。ラジオを今まで聞かなかったという方にもぜひ「つけてみ、ちょっとつけてみ」と、そしてまたつけてみようかなと思っていただくという発信の仕方を、ラジオとしてもしていかなきゃいけないなと思います。
Tad そうですね。テミじぃ、かわいいですね。
原田 かわいいですよね。
Tad MROのRが能登半島になってる。あぁ、すごくうまいな…。これまた気づいてしまったんですけど、「ツケテミツケテミ」っていうのは、たぶんラジオをつけてない、あるいはつけたことがあんまりない方、習慣になってない方向けの言葉なのかなと思うんですが、実はラジオをつけることが習慣化されてる方にとっても言葉の区切り方を変えると「ツケテ、ミツケテミ」となりますね…正解?
原田 正解です。
Tad 僕もこの番組なりに見つけてもらおうということでtadmitani.netで番組のWebサイトを公開していますが、出演者の企業について調べるうちに番組のWebサイトを見つけてこの番組のことを知っていただいたり、自分の会社の社長が出るからラジオを聞いてみたという方や、意外と次のゲストの会社のも気になって聞き続けてもらっていたりということもあると思います。これまで70人ぐらいのゲストに来てもらってるんですが、出演された方の会社の社員がそれぞれ100人だったら、だいたい7000人ぐらいにはこの番組に触れてもらっているのかなあと思ってます。これからもMROラジオさんにとっても「見つけてもらえる番組」として、この番組を細々とやっていきたいと思います。

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