お客様の最適を追求する三谷産業のDNA。

第25回放送

三谷産業株式会社 代表取締役社長

三谷忠照さん

Profile

みたに・ただてる/1984年生まれ。石川県金沢市出身。 中学校までを金沢で過ごし、慶應義塾高校卒業、慶應義塾大学の経済学部卒業後、渡米。シリコンバレーにてベンチャーキャピタルで勤務する傍ら、みずからベンチャー企業を起業した経験も持つ。2012年に帰国し、三谷産業常務取締役を経て、2017年、『三谷産業株式会社』代表取締役社長に就任。

三谷産業Webサイト

Tad 今日のゲストは、『三谷産業株式会社』代表取締役社長、三谷忠照さんです。どうもこんにちは。
原田 あの、今スタジオには、Tadさんと私しかいないんですけど…!?
Tad ……ええ、まあ、いらっしゃっていますよ。こんにちは。
三谷 《どうもこんにちは。よろしくお願いします》(音声)
Tad 三谷産業さんといえば、石川県内のリスナーさんでも、名前は知っているのだけど何の会社かまで知っている人は実はあまりいないんじゃないですか?
三谷 《ありがとうございます》(音声)
Tad 今回は御社の成り立ちからお話しいただければと思っております。
三谷 《そうですね》(音声)
原田 Tadさん、Tadさん! もうやめましょう(笑)。リスナーの皆さんもTad Mitaniが三谷産業の社長さんだって、わかってますって(笑)。
Tad そんなわけないです(笑)。
原田 ずっとバレバレでしたよ。苦し紛れにもこんな音声まで用意して…、いつ準備したんですか。
(スマートフォンを活用して、セリフの音声データを仕込んでいたTad Mitani)
Tad そうですね。さすがにもう年貢の納め時かなと思います。
ということで、私Tad Mitaniは、実は三谷産業の社長の三谷忠照だということでした。
原田 だから、みんな知ってましたって(笑)。
Tad
※以下、三谷
皆さん、今まで黙っていまして、大変失礼致しました。せっかくですから、三谷産業のプロフィールをご紹介させていただきます。
原田 『三谷産業株式会社』は、石川県金沢市と東京都千代田区に本社を構える創業93年目の会社です。エネルギー、化学品、情報システム、樹脂・エレクトロニクス、空調設備、住宅設備といった6つの事業分野で、商社であったり、メーカーであったりと業種、業界に関わらずさまざまな事業展開をされています。
…ということですが、ホームページを拝見したんですけど、なんの会社かやっぱりわからないんですが。
石川県金沢市玉川町にある『三谷産業株式会社』金沢本社 社屋。
三谷 そうですよね。キーワードが多すぎちゃって、なんの会社なんですかね。
原田 その辺を深堀していただければと思います。
三谷 三谷産業は、創業当時は石炭の販売業だったんですね。今でいうとエネルギー分野に分類されるのかもしれないのですけれども。私の祖父が創業者ですが、自ら自転車で駆け回って、お客様を獲得していったと聞いています。他の会社とは売り方が違ったそうで、具体的には、お客様から注文が入ってもご注文のまま持っていかないんですね。例えば、お客様から今月は石炭を10トン持ってきてくれと言われても、いやいや、10トンはいらないんじゃないですか、6トンで充分ですよ、と。そんなことを言っていたらしいんですね。
三谷産業の祖業は石炭の販売業。写真は石炭の配送基地の様子。
原田 お客様からしたら、こっちが10トンって言っているのにどうして6トンなんだってなりませんか?
三谷 そうなんですよ。だからお叱りを受けたっていう風に聞いているんですけど。
原田 でも、それには裏付けがあってのことなんですよね。
三谷 石炭というのは、投入すればするだけエネルギーがとれるわけじゃなくて、ボイラーの性能によってどこかで頭打ちになるんですね。ですから、お客様の生産設備や生産計画を見ていくと、実は本当は10トンも必要ないという話になるんです。計算によって6トンが最適だという結果が出れば、お客様にそれをお伝えするというような提案型営業みたいなことを当時やっていたんですよね。10トンの予定が6トンで済むのだから、4トン分の経費は別のものにお使いになられたらどうですか、というご提案までしていたようです。
原田 そうなんですね。
三谷 やっぱり最初はお客様から、「客が10トン持って来いと言うんだから持って来い」とお叱りを受けていたそうです。でも時間をかけて、三谷の言うことを聞いていたら、段々と経営が上向いてきてくれたという風にお褒めの言葉をいただくようになって、ちょっとずつ、時間をかけてですけれど信頼を作っていくことができたのかなと思います。
原田 なるほど。
三谷 その後、石炭というのは、戦時中に統制物資になってしまい、自由に売り買いができなくなったんですよね。特に県境をまたげなくなったのが痛手でして。我々は、富山県にお客様が多くて、特に富山県の化学品メーカーさんが大のお得意先だったんですよ。「今後、石炭をお売りできなくなってしまいました」とその化学品メーカーさんにお伝えしたところ、「それなら三谷の売り方は面白いから、うちの化学品でも売ってみたらどうか」と、言っていただけて、そこから化学品の卸売業というか商社みたいな展開になっていくんですね。
1940年代、化学品事業に着手した頃の様子。時代と共に終息した石炭事業に代わる柱となった。
原田 ご縁が繋がって新たな分野へ広がっていったというようなことですか?
三谷 そうですね。ご縁を頂けたというのは我々にとってラッキーだったと思いますし、当時、自分たちの生業の軸だった石炭が、自由に売り買いできなくなったことが、自分たちにとってはある意味ラッキーなことだったと今振り返ると思います。当時はお先真っ暗という状況になったと思うんですけど。
原田 そうですよね。石炭業で得た信頼からご縁が生まれていき、そして今では6つの分野へ事業展開されていますが、それぞれの分野でどのような流れがあったのですか。
三谷 食器メーカーの『ニッコー』さんに石炭を納入するのが我々の仕事の一つでもあったんですね。当時『ニッコー』は世界一の食器メーカーだったんじゃないかなと思いますが、『ニッコー』も戦争の影響を受けたんです。釜山にグローバル本社を構えて、これからいざ、世界に打って出ようというときに開戦して終戦して、接収されたんですよ。我々は石炭を納めていたので債権者だったこともあって、経営の再建を一部担わせていただいていました。それで祖父が洋食器の販売網の開拓で米国を回っていたんです。
祖父は米国で、バイヤーさん達が、普通にコンピュータを使っているのを目の当たりにしたり、近代的な建築設備や、空調、セントラルヒーティング、キッチンなどといった、昭和時代の夢の生活に出てきそうなモダンなものを目にしたり、ビュンビュンと走る自動車の量に衝撃を受けて帰ってきて。それで、日本のお客様にも経営に資するものがあるんじゃないかということで、コンピュータの代理店になったり、空調とかセントラルヒーティングの施工のチームを自分たちで持ったりしながら、売り物がどんどん広がっていった、そういうような流れですね。
原田 なるほど。今は三谷社長ご自身が、会社の中で全体を把握したり、どういう風にしていくか、舵取りをしていくお立場かと思うんですけど、会社の中でどのようなことを大切になさっていらっしゃるのでしょうか?
三谷 そうですね。一つは、創業当時の石炭の「10トン持って来い、6トンで充分です」というエピソードの精神を大切にしたいと思っています。売り物はもちろん変わりましたが、売り方はある意味変わっていなくて。例えば、工場のお客様がいて、「在庫の管理が大変になってきたので、在庫管理のシステムの費用を見積もってほしい」と言われたりすると、そういう時に単純に在庫管理システムを持っていくわけではありません。
お客様の生産計画や生産設備、あるいは在庫がどういう風にして生まれるのかというプロセスを拝見して、それをもとに提案を作っています。例えば、確かに在庫管理は大変でも、在庫の管理方法に問題があるわけではなくて、作りすぎていることが問題だとすれば、生産管理システムのご提案を持っていきます。そうすると他社さんと相見積もりを取られている場合でも、我々は在庫管理システムではなく生産管理システム──すなわちまったく違う製品を担いでいく。そうするとそこで、競合製品が競合製品でなくなっていくんですね。「三谷さんの提案に納得した」という風に言っていただけると一社指名でお仕事をいただけるので、それが我々にとって理想の姿ですね。
原田 なるほど。お客様も気づきを得られたということですね。
三谷 それから事業分野が6事業セグメントありますが、この30年ぐらい縦割りで、それぞれの事業部で技術や品質を追求してきましたが、今の時代はそれを掛け合わせていく、その事業分野同士の重なるところに新しい価値があるよ、ということを会社の中でしきりに推進しています。例えばIT×化学とかね、化学品のタンクがIoT化されていて、タンクの中の液体の使用量を遠隔で見ることができて、そこから物流の最適化を図るとか。空調の分野では工場の設備などを担っていますが、それと化学品を掛け合わせて、排ガスの無毒化をするような触媒を、プラントごとつくるようなご提案をするとか。そんなようなことを推し進めています。
三谷産業の6つの事業セグメント。事業分野を掛け合わせた新たな価値創造を推進している。
原田 発想とかアイデアによってそれぞれの分野が有機的につながるということですね。三谷社長はご自身もベンチャー企業を興された経験があるそうですが、その経験が今に生きている部分というのはあるのでしょうか。
三谷 そうですね。僕はベンチャー企業を自分でやっていたんですけど、失敗して帰ってきているんですよ。シリコンバレーって、ベンチャー界隈にとってはメッカみたいな場所でして、ご縁で行くことができたのですが、最初のころは仕事で色々な起業家さんにお会いしました。すごくレベルの高いことをやっているんだろうなと思っていたら、ベンチャーの社長さんたちは意外とフランクで。そこで僕も錯覚して、自分でも会社をやれるのかなと思うようになってしまったんです。僕はたまたま大学時代に電子新聞の研究をやっていて、設計や開発技術を追究していて。追究しすぎて留年したんですけど(笑)。それで就職先がおじゃんになったから、アメリカに行ったという経緯もありまして。
原田 そういう経緯だったのですね。
三谷 大学時代の研究がうまくいっていたのが忘れられなくて。電子新聞から電子書籍に変わりましたけど、アメリカでベンチャーを立ち上げて電子書籍の技術開発をやっていたんです。東京で開催された大きなコンテストで賞をもらって順風満帆に思えたんですけれども、当時は、出版業界のことまではあまりわかっていなかったんですよね。出版社さんや読者の方々からは是非こういうアプリケーションを出してほしいというお声はあったんですけれども、出版業界がどういう風に収益を作っているのかという構造を全然分かっておらず、自分が踏んでいった道が色々と裏目に出たんですね。業界の壁みたいなものに阻まれていったというか。
アメリカで仕事をしていた頃の三谷社長(右から2番目)。東京で参加したビジネスコンテストの表彰式にて。
原田 そういうことをアドバイスしてくださる方がいたら、また違っていたかもしれないということでしょうかね。
三谷 だから今、あの当時、自分の周りにいてほしかった少し上の大人、みたいな人物になろうと、そんな風に思っていまして。自分は業界の産業構造を知らなかったこととか、顧客や企業の課題をまったく意識していなかったことで負けてしまったんですけれど、今、三谷産業の社長という自分の立ち位置や仕事でいうと、我々は、お客様の課題にとても近いところにいさせていただいているので、ベンチャーの技術や製品がどんな風に課題解決に役立つのかということを企業と一緒になって考えることが三谷産業の役割の一つかなと思いながら仕事をしています。
三谷産業では、北陸の地域課題の解決や社会の発展に寄与するビジネスプランを募集する「MITANI BUSINESS CONTEST」を毎年12月に開催している。2021年9月30日まで、エントリー受付中。

ゲストが選んだ今回の一曲

三谷産業 企業CM

「はじまりのページ」

「そんな選曲ありなの?っていう感じかもしれませんが、当社のCMの曲です。MROでも流してもらっていますけど、数年前にテレビCMを刷新したんです。今のCMって結構目とか耳を引くような、アテンションを集めるようなものが多いと思うんですけど、繰り返し流すことになるので、何度見ても何度聞いても飽きない清涼剤みたいなCMにしたいと思って作っていただいた曲です」

トークを終えてAfter talk

Tad 今日はゲストに『三谷産業株式会社』代表取締役社長の三谷忠照さんをお招きしましたけれども、いかがでしたか原田さん。
原田 えっと……ご本人ですよね(笑)。いろいろな意味ですっきりしたなっていう感じですね。Tadさんの正体も明らかになってよかったです。『三谷産業』という会社に関する成り立ちから今に至るまでを理解することができて、どんな会社なんだろう、という思いがすっきりしました。また、長く続いている歴史の理由というか、変わらないマインドがあるからこそ今があるんだなというのをすごく感じました。
Tad ありがとうございます。今日は自分をゲストに呼ぶことになったというときにはどうしようかと思ったんですけれども、引き続き、MCのTad Mitaniとして番組をお送りしたいなと思っております。番組スタートから、色々な方にお話をお聞きしてきましたけれども、石川県にはまだまだおもしろい会社がたくさんありますし、おもしろい社長さんもいっぱいいらっしゃるので、そういった方々を紹介させていただくというのもまた自分の使命かなという風に思っています。どうぞ皆さん、これからもよろしくお願いいたします。

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