後編

歴史的建造物を活かした「国立工芸館」を設計。

第79回放送

株式会社山岸建築設計事務所 代表取締役社長

山岸敬広さん

Profile

やまぎし・たかひろ/1978年生まれ。2001年、芝浦工業大学建築学科を卒業。2003年、金沢工業大学大学院修士課程建築学専攻を卒業後、『香山壽夫建築研究所』(東京)に所属。2008年より『株式会社山岸建築設計事務所』(1951年創業 所在地:金沢市中村町)に勤務、2013年、代表取締役社長に就任。

山岸建築設計事務所Webサイト

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Tad 前回予告した通り、『株式会社山岸建築設計事務所』のWebサイトを拝見して、最近の山岸さんの作品となる国立工芸館に行ってまいりました。とても素敵で、現代的な要素もあって、かつ、昔の建物ならではの歴史の重みも感じられて。これが前回、山岸さんがおっしゃられていた「調和と主張」のバランスだったりするのかなと思いました。すごかったです。
さて、前回も山岸さんに創業70周年ということでお話をうかがったんですが、記念行事などはされたのでしょうか?
山岸 ちょうど今年、金沢市の「はたらく人にやさしい事業所表彰」を受けたのですが、そのプレゼンを総務の女性が全部一人でやってくれまして、どういうプレゼンをしたのか知りたかったので、社員みんなの前で再現してもらって、ほっこりした感じで終えました。コロナ禍ということもありましたので社員だけでこぢんまりとやりました。
Tad なるほど。コロナ禍でもいい時間を過ごせたのではないかと思います。前回も3代続いている会社で、おじいさまの代から設計のお仕事に携わってこられたとうかがいましたが、山岸さんとしては、やはりそうした道筋があって、ご自身でも大学で建築を学ばれたのでしょうか?
山岸 そのあたりはあまり意識せずに育ちました。日本の教育って、文系・理系と選択が分かれますよね。僕は数学、理科、物理が得意で、逆に英語や国語が全然できなかったので、おのずと理系に進みました。特に数学が好きでしたが、理系で頭のいい人は医者になっていくような中で、自分は絵も好きだったのでなんとなく「芸術寄り」という感じで建築の道に進みました。理系の工学部でどこの学科に行きたいかとなると、やっぱり「建築がいいな、実家もそうだし」というのもありましたね。
Tad 小さい頃から「後を継がなければ」ということではなくて、改めて学科選びをしてみると自然とそこに惹かれていくものがあったという感じですか?
山岸 そういう意味では父親に、戦略的に「騙される」と言いますか、うまくのせられたんだろうなというところはありますね。
原田 建築家のご一家って、どんなお家にお住まいなんだろうと、興味があるんですが、前回、野々市のひいおじいさまのお話がありましたよね。旅館を買われて、そこに代々、ずっと住んでいらっしゃるということでしたが、今も建物を少しずつ改修しながらお住まいなんですか?
山岸 そうです。曽祖父は大工だったのですが、江戸期から馬車が通っていたような旧北国街道沿いで営まれていた旅籠の建物を買って、代々、建物を時代に合わせて建て替えては住み続けているという感じですね。
改修しながら住み続けている山岸さんの自宅。手前が増築した子世帯、奥に母屋がある。
原田 その街にずっと、時代とともに過ごしてこられたということですね。
山岸 そうですね。そういえば、父親が小学校の頃に教わった先生が僕の担任でした。また、次男の去年の担任の先生も私の担任だった先生でした。世代を跨いで同じ先生に教わるっていうのは面白いですよね。
原田 恩師も代々脈々と(笑)。すごいですね。お父様の小さい時を知っている先生が、「お父さん、こうだったわよ」みたいな話もされるわけですね。
山岸 「お前、昔の親父にそっくりやな」という話ですとか。
原田 それってすごく幸せなことですよね。
山岸 子どもからすると、ちょっと嫌な部分もあるかもしれないですが(笑)。
Tad 山岸さんは東京に一度行かれて、金沢工業大学の大学院に進まれて、そこで建築を専攻されたということですが、その後に所属されていた建築家の香山壽夫さんの事務所、こちらは東京ですよね?
山岸 そうです。香山先生は東京大学で長年に亘って教鞭を執っていらっしゃって、前田家ともゆかりのある東大の赤門から歩いて行ける距離に事務所があり、そこでずっと仕事をしていました。
原田 山岸さんはなにかご縁があって、そちらに行かれるようになったんですか?
山岸 香山先生が野々市町役場(現:野々市市役所)の設計をすることになって、僕が大学院の時にお世話になっていた水野一郎先生と香山先生が東京大学の建築学科の先輩と後輩という間柄で、学生時代は本の貸し借りなんかもされていたというので、僕が水野先生の研究室に所属している時に、香山先生から「少し勉強がてら来てみないか」とお誘いをいただきまして。
Tad 地元である野々市のプロジェクトを香山さんが手掛けるということもあって?
山岸 そうです。それがきっかけで、そのままなんとなく香山先生からも気に入られて、その流れで就職したという感じですね。
Tad いざ、本当に建築の道に入って行くことになって、どうでしたか?
山岸 当時は寝る暇もなくて、基本的には終電で帰っていました。東京だと終電があるので、この時間までには帰れるということですから、むしろありがたかったですが(笑)。
原田 香山先生の下でお仕事なさった時にはいろいろ刺激を受けられて、いろんなことを学ばれたと思いますが、一番学ばれたことはどんなことですか?
山岸 香山先生は、僕が事務所に通っていた時は東大を退任されて明治大学で教えていらっしゃいましたが、建築家として実作を造りながら教鞭も執られて、建築のことをずっと教え続けていらっしゃる先生なので、そういう意味でいろんな知識を得られたというのと、言葉の語源というのを徹底して教わりました。
原田 言葉の語源?
山岸 はい。前回、学校の話をしましたが、例えば「学校の始まりって何? どこか知ってる?」ということとか。それは、大きな木の下で、一人の「教えたい」という教師に、一人の「学びたい」という学生が教わるところから始まっているんだと。神話的ですが、学校という建物はどうあるべきかの根本を示すようなエピソードだと思います。
Tad 言葉から本質を追求して、あるべき形を手繰り寄せているんですね。
山岸 そうです。建築用語はいろいろありますが、その言葉がどこから生まれているのかを知ることは大切で、使い方を間違えると結構怒られました。
Tad 香山先生はあらゆるジャンルの建物を設計されてきたと思いますが、特に特化されていたジャンルにはどんなものがあるのでしょうか?
山岸 長年、東京大学のキャンパス計画を手掛けていらっしゃいますね。学生運動で有名な安田講堂の改修や耐震化をされています。
Tad あの建物は時代に合わせて耐震化させていったんですね。
山岸 そうです。その前の地下に学生食堂があるんですが、そこが多分、香山先生が東大のキャンパスの中で一番初めに手がけられた施設だと思います。ずっと時代に照らし合わせてキャンパスを計画されていて、さらに全国で新しい学校も造っていらっしゃるのと、もう一つ、近年いろんなところで設計されているのが劇場です。香山先生の代表作が、彩の国さいたま芸術劇場で、蜷川幸雄さんのホームシアターだったところですが、その後、研究と経験によって得たものを神奈川芸術劇場や東京芸術劇場といったところで活かしていらっしゃいます。今、地方都市でもいろんなところで劇場を手掛けていらして、近年でいうと、ロームシアター京都ですね。前川國男さんという近代建築の有名な建築家による建物を、現代の劇場として使えるように大改修したというのが、建築界ではものすごい論争を生みました。「“前川建築”を残すべき」という保存論と闘いながら。
Tad 手を入れるということは形を変えるということですものね。
山岸 とにかく今の劇場はステージの上を高くしないといけないので、景観規制や高さ規制とのせめぎ合いになります。今、金沢歌劇座の建て替え論議が行われていますが、そこでもロームシアター京都が参考として挙がっています。
原田 山岸さんは、東京の香山先生の下でどんなことをなさったんですか?
山岸 6年間でしたが、いくつか設計をさせていただいて、最後に携わったのは愛知県の長久手町にある小学校ですね。それで卒業しました。ちょうど30歳の頃だったんですが、家業を継ぐために実家に帰ってきました。
Tad 家業である『株式会社山岸建築設計事務所』に帰ってこられた後は、どんなお仕事をされてきたんですか?
山岸 本当にタイミングがよくて、金沢市が学校建築に関する設計者選定をプロポーザル方式としてくれたんです。山出・前金沢市長がいい設計提案を採用しようという想いで、ちょうど帰ってきた翌年に小立野小学校のプロポーザルがあったんです。それに応募した案が採用されて、すごくラッキーでした。香山先生は、造り方というよりも「何をすべきなのか」という論理を教えてくれる方でして、小立野小学校は玉姫の由来のある天徳院のお庭だったところが敷地だったので、それをどう読み解いて、どう建築に落とし込むかというのは、香山先生の論理を習っていたからこそ考えることができたし、心に響く提案ができたんじゃないかなと思います。
Tad 具体的にはどういう提案をされたんですか?
山岸 もともとあった旧校舎を建て替える提案でした。2つのお庭があって、1つは「五輪の庭」といって前の東京オリンピックの時にできた庭でした。このあたりは文教地区で近隣には大学もあり、いろいろな教授や先生が住んでいらっしゃる地域で、卒業生も多いんです。多くの卒業生の思い出の庭を残しながら、建物を一気に、ではなく、順番に建て替えるというものでした。しかも、街並みに合った2階建ての低い建物を提案したら、とても喜ばれて。
小立野小学校。街並みに調和したやさしい雰囲気の2階建ての校舎。
原田 確かに、前を通っても、いかにも「小学校が建っています!」という主張がなくて、本当に街の中に溶け込んでいるようですよね。
Tad 最後に、最近の山岸さんの作品となる国立工芸館のこともぜひ、苦労されたことなどがあれば聞かせてください。
山岸 国立工芸館ですが、実は当社の創業者である祖父が金沢市立工業高校を出てから入ったのが、第九師団だったんです。ですから、祖父が実際にいた建物を扱うということで、僕の中でいろんな思いが巡りました。石川県がずっと残し続けた、旧陸軍第九師団司令部庁舎と金沢偕行社という2つの軍の施設であり、有形文化財を活かしたのが国立工芸館です。Tadさんが実際に見て感じられた「調和と主張」というのを解説させていただきますと、金沢偕行社は華やかなパーティーをする場だったので艶やかな緑色をしていますよね。もう一方の旧陸軍第九師団司令部庁舎は、陸軍の施設らしい厳格な茶色い建物になっています。この2つは元々並んで建っていませんでしたが、今回、並んだことで、先ほど申し上げた「調和と主張」や、金沢でよく言われる「伝統と革新」という対比が、そこにそのまま表れているのです。建築的には木造の建物とコンクリートの建物を繋げるという、技術的に難しいことをやっていますが、できてみるとそこに違和感はなく、ずっとそこにあったかのような感じで佇んでいますよね。
ライトアップされた、優美な装いの国立工芸館。
Tad おっしゃる通りですね。ひとつの建物に見えますが、建物は木造とコンクリートで、別の構造だったのですね。
山岸 外から見ても木造とコンクリートの境界はわからないように一体構造になっています。これも、実は陰ながらすごく努力をしている部分なので是非ご覧になってみてください。

ゲストが選んだ今回の一曲

PUSHIM

「Brand New Day」

「レゲエってすごく精神的な音楽で、それを日本人が取り入れているところに魅力を感じたのと、このコロナ禍に“Brand New Day”、新しい日をどう迎えるかという意味もこめて選びました。この曲を聴くと元気が出ます」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに『株式会社山岸建築設計事務所』代表取締役社長、山岸敬広さんにお越しいただきましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 東京時代の香山壽夫さんから学んだという学校の語源のエピソードがすごく印象に残っています。そんなふうに物事の本質を見抜いて、山岸さんがこれから金沢でどんな建物を建てていくのか気になりますね。Mitaniさんは、いかがでしたか?
Tad 小立野小学校の話も、国立工芸館の話も、「調和と主張」や「伝統と革新」の話も、どれもある種の葛藤の上に絶妙なバランスで成立しているものですよね。原田さんが言ったように、本質にググっと近づいていくことで、それらの葛藤に対してバランスを与えていくという、すごく高度なことをされているなと思いました。もしかしたら葛藤の中にあるからこそ、真に金沢らしい建築を生み出しているというのが、『株式会社山岸建築設計事務所』としての姿勢なのかなと感じました。何か大きなヒントをいただいたような気がします。リスナー、読者の皆さまにはぜひ山岸さんのWebサイトの方もご覧になっていただければと思います。

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