後編

金沢を、日本料理を学ぶ若者たちの聖地に。

第87回放送

日本料理 銭屋 主人

髙木慎一朗さん

Profile

たかぎ・しんいちろう/1970年、石川県金沢市生まれ。1986年、石川県立金沢泉丘高等学校入学後、アメリカに一年間留学。日本大学卒業後、『株式会社京都吉兆』入社。日本料理の修業の後、1996年、金沢に戻り、『日本料理 銭屋』(創業は1970年。片町の店舗のほか、ひがし茶屋街『十月亭』も経営)2代目主人に。日本料理のデモンストレーションや講演会、晩餐会を担当するなど世界各国で活動の場を広げる。

インタビュー前編はこちら

Tad 今回のゲストは前回に引き続き、『日本料理 銭屋』主人、髙木慎一朗さんです。髙木さんは体がけっこうガシッとされていますが、スポーツもされていたんですか?
髙木 そうですね、大学時代は剣道部でした。4年間、詰襟を着てました。4年生の10月で引退して、それから1か月だけ、アメフトをやっていました。
原田 その体格を活かして?
髙木 留学時代にちょこっとアメフトをやったことがあったんで、それで暇だったんでちょっと入れてくれよと。本当はだめなんですけどね(笑)。
Tad 音楽もされているんですよね。
髙木 中学の頃からバンドをやってました。
Tad バンド?
原田 楽器は何を?
髙木 ギターを弾いてました。
原田 そうですか。ギターを持って来てもらえばよかった。
Tad 最近でもちょこちょこ「出演」されているんですか?
原田 え、そんな顔があるんですか?
髙木 あの、名乗らずに。街と調和してますんで。
実はバンドを組み、ギタリストという意外な一面も持つ髙木さん(写真左)。
Tad 前回も海外でのデモンストレーションのお話などをお聞きしたんですが、海外に出てみられて、日本料理のことがさらによく見えてきたということはありますか?
髙木 そうですね、見えるというよりもますますポテンシャルを感じたというか、まだまだいけるぞとは思いましたね。
Tad 日本料理というと、髙木さんの中にはどんな定義がありますか?
髙木 う~ん、これは難しいもので、日本政府は和食という言葉を使って世界文化遺産に登録しましたよね。私はやはり屋号自体が『日本料理 銭屋』ですので、「日本料理」という言葉をあえて使うんですが、極端なことを言うと、ちゃんと出汁をひいて、お米、ごはんを中心にした献立にすると、全部日本料理なんじゃないかなという気がしますね。
原田 究極的にシンプルなところまで突き詰めると?
『銭屋』のルーツともいえるカウンターに立ち、包丁を握る髙木さん。
髙木 そうです。もちろん茶懐石でもごはんは一番最初に出しますし、水と火加減だけで仕上げる大変難しい料理です。育ったお家ごとにいろんなお好みがあるわけじゃないですか。でも基本的には、白いごはんの場合、仕上げる時って火加減と水加減だけですよね。それでいていろんな好みに合わせた仕上がりができる食材って、そんなにたくさんないと思うんですよ。
原田 たしかに。言われてみると。
髙木 そこからさらに炊き込みごはんであるとかお寿司であるとか、さまざまな料理に変化するわけですから、これはちょっとすごいことだと思うんですよね。
原田 そうですよね。経歴をお聞きしていて、最初、髙木さんご自身は日本料理店を継ぐつもりはなかったということですが、そこから日本料理への想いをこうして語ってくださっている今日に至るまで、どういうことがあったんでしょうか?
髙木 4つ下の弟がいまして、今一緒に『銭屋』をやっているんですが、彼は早くから調理師学校に進学すると決めていたので、弟と父が店をやるのかなぐらいの軽い感じで思っていました。それで大学に進学して適当なタイミングでアメリカの大学にでも行こうかなぐらいにしか考えていなかったんです。まさか自分が料理人になるなんて、まったく思ってなかったんですが、大学入学した年の秋に父が急逝しまして、それでちょっと人生が変わり始めたかなという感じですね。
原田 なるほど。そこから、本当に一から日本料理を学び始めたということですか?
髙木 一からどころじゃないですよ。『株式会社京都吉兆』に同期入社したメンバーはみんな調理師学校を出ているので、桂剥きだとか魚をおろしたりだとか、なんとなくでもできるわけですよ。僕はそれまでの大学時代は一人暮らしをしていましたが、せいぜい、焼きそばか、野菜炒めか、カレーライスくらいしか作っていないわけですよ。
Tad そうだったんですね。
髙木 ですから同期と比べたらもう…しかも年もとってるし…。
Tad 大学を卒業されていますものね。
髙木 大学出たのもそうですが、アメリカも含めると4年間、高校生をやってましたし、よせばいいのに浪人してますんで、25歳の新卒です。
原田 そして桂剥きはできない…
髙木 できないどころか道具の名前も知らないわけです。なんだそれ、って感じですよね。
原田 そこから一生懸命?
髙木 もうやるしかないってことですよ。料理人の息子だからって言ったって、特別な事実が生まれついて身についているものでもないですし。
原田 その中で日本料理の魅力やすごさみたいなものを、やっぱり感じながら修業時代を送られてきたってことですか?
髙木 修業時代はそんなことを感じている余裕、ないですね。ひたすら目の前の仕事をこなすだけ。それは強いられて働いていたわけではなくて、やっぱり自分の仕事をするために早く行かなければいけないとか、自分の仕事をしたいから遅くまで残らなきゃいけない、そういうことですね。
原田 なるほど。
髙木 与えられた仕事をこなすだけでは、全然技術が身につかないので。自分で技術を身につけようとしなければならないという感じですね。学校ではないですから。
Tad そんな中で日本料理の料理人の社会的地位向上のための試みと取り組みをされているとうかがっています。
髙木 取り組みというかそれを念頭においているということなんですが、例えばフランスとかイタリアに行くと、どんな小さなレストランでもオーナーシェフだというとやはりそれなりの社会的な評価があります。その背景には、料理に対する文化的な価値が認識されているという事実があります。やっぱりその点はヨーロッパが強いですね。結局、そこからアメリカに行くと、アメリカの場合はショービジネスもちょっと絡んで、テレビに出るようなセレブリティシェフが出てきたりして、料理人というと非常に人気のある職業の一つになっている。それが日本、中国、東南アジアにいけばいくほど、どんどんそういった評価がなくなってくる。そうすると私は何を懸念しているかというと「次の世代の料理人はちゃんと育ってくれるのか」、「育ってくれる前にちゃんと新しい人たちが料理人を目指してくれるのか」、そこが一番心配しているところなんです。あんなにきつくてしんどくて、なのにさほど認められない仕事だったら、誰も来ないですよね。
ですから、そういうところの認識を少しでも、ちょっと変えてみたいなという思いでやっている動きが、こういうことになったんですね。
Tad 具体的にはどういうアクションをされているんですか?
髙木 例えば、ちょっと前の話ですが、農林水産省の「和食を世界遺産に」といった一連の動きに、ただ単に料理を研究するのではなくて、歴史的な背景や事実の伝承の仕方、伝播の仕方、そういうものを体系づけて認識するところから入ったんですが、そういったところでいろんな先生方と一緒に意見交換したり、経済産業省を中心にして日本のプロダクトを海外に送り出すことを熱心にやろうという時に、日本料理というものを一つのフォーマットとして扱ってもらうようにこちらからプッシュしたり。そういった取り組みのお手伝いもさせてもらっています。
Tad 省庁、官庁の方々は日本料理の世界の人からすると少し認識が違ったりするところもあるんですか?
髙木 2010年、2011年頃だったでしょうか。文化庁の文化交流使という企画があるんですが、例えば絵描きさんだとかミュージシャン、華道家、そういう方が海外に行って日本の文化を広めてくるという企画がありまして、それを経験された工芸の作家さんや茶道家といった方々から私もご推薦いただいたんですね。そして、その推薦状を持って文化庁に行った時に「あ、料理人ですか。厚生労働省、もしくは農林水産省ですね、文化庁ではないですね」というようなことを言われたんです。つまり、その時点では食文化という言葉が霞が関にはなかったということなんですね。
原田 そうなんですね。
髙木 愕然としました。
Tad 料理を総合的な芸術のように捉えることもあると思うのですが、食文化という言葉もすごく奥深いものですし…
髙木 ただ残念ながら役所ではそういう言葉は認識されてなかった。公式には認識されていなかったことをその時、知るわけです。ところが、例えばフランスなんかに行くと料理人で勲章を持っている人はたくさんいます。いろんな種類の勲章がありますが、残念ながら日本では、例えば文化功労者に選ばれた料理人は本当にわずかで、私の知る限りは『吉兆』創業者の湯木貞一さん、それから『菊乃井』の村田吉弘さんぐらいでしょうか。文化勲章受章者は一人もいません。
原田 そういう意味ではそれを変えたいと。
髙木 変えることが自分でできるとは思いませんが、誰かが動かないといけない。その一歩でもいいんじゃないかなって思ってます。
原田 若い後継者を育成するための仕掛けについても何かお考えですか?
髙木 昨年はコロナの影響でできなかったんですが、一昨年、金沢市の主催で「全日本高校生WASHOKUグランプリ」というのを開催しまして、決勝で金沢に8チームが残って、実際に料理を作ってくれてチャンピオンチームを決めました。一次審査は書類選考なんですが、100チーム以上もエントリーがあったんです。高校生の料理コンテストとしては群を抜いた応募数でした。参加資格を、全国の高校の、例えば調理科とか栄養科に限った全国大会もあるんですよ。でも高校生なら誰でもいいという大会はないんです。そんな中、1チームしかだめだとかそういう縛りも一切なく、1つの高校から何チーム出てもかまわないという料理コンテストを金沢市が主催していまして、そこで私が実行委員長と審査委員長をお手伝いしております。
Tad そうやって全国からファイナリストに選ばれた方々が、金沢で自分たちの腕前を披露したり、あるいは高木さんからの強烈なインパクトのある「日本料理とはこうだ」というお話だったり、あるいは実際にふるまわれる料理があったりするかもしれませんが、そこですごく衝撃を受けて、また地元の高校に戻っていくわけですよね。
髙木 そうなんです。それで今年の春、ファイナリストの16人の中から1人が、金沢で就職したんです。
Tad すごいですね。
原田 そうなんですか。
髙木 実は来春に、第1回のファイナリストから2人が「金沢で日本料理を勉強したい」ということで私のところにやってきます。こういうことで金沢は日本料理を勉強するための聖地になってくれればいいなと思います。料理だけではなくて、日本料理を勉強する時に、先ほどMitaniさんもおっしゃったように日本料理は総合的なものですから伝統工芸や伝統芸能など、ありとあらゆるものが関連してくるわけです。それらと料理の距離感は、金沢ほど近いところは全国でも珍しいです。
Tad そうですね、なるほど。
髙木 これほどまでに盛んな都市はそうそうないと思いますね。
Tad 素人からすると、京都も料理と関連するものとの距離は近い印象があるんですが、金沢と京都の違いというとどの辺にありますか?
髙木 どうでしょうね、金沢の方がちょっとのんびりしてますね。のんびりしてるってことは、やはり曖昧な部分が残っているということだと思います。いい意味で。
原田 なるほど。
髙木 もちろん私も京都で修業しましたから、修業するには京都のいいところはたくさんあります。でも、やはり金沢は生まれ故郷ですから、金沢もぜひ京都のように全国から勉強する若者が集まるような街になってくれればいいなと思いますね。
原田 またそののんびりした感じがさらにチャレンジする余地も与えてくれるんじゃないかな。
髙木 おっしゃる通りですね。もちろん料理の勉強も大事なんですが、料理の勉強の前にまず、きちんとした社会人にならなきゃいけない。そういった指導をする人間というのも当然必要ですから。金沢の料理屋の旦那衆は、もちろん料理の専門家ですが、遊びの専門家でもありますので(笑)、そういう意味でのゆとりというのも十分、あるんじゃないかなと思います。

ゲストが選んだ今回の一曲

寺尾 聰

「Re-Cool ルビーの指環」

「小学校5年生の時、テレビをつければこの曲が流れていたというくらい大ヒットした曲なんですが、当時、この歌詞にあるような大人の雰囲気に非常に憧れていまして、大好きでした。オリジナルで演奏したバンドが何年後かにアレンジを変えて演奏した曲です」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに『日本料理 銭屋』主人、髙木慎一朗さんをお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 日本料理が、目で楽しめて、さらに味わえるという素晴らしい芸術であり文化であるということを今日、あらためて感じましたし、髙木さんの取り組みで、金沢発信でそれを発展させていく担い手の方がどんどん育って、世界にさらに広がっていったらいいと思いました。
Tad 文化庁や農林水産省、経済産業省といった省庁の方々や、それから有識者同士の会議を通じて、料理人の社会的地位の向上についてのお話もうかがいましたが、業界全体をそんなふうに引っ張っていかれる方でも、25歳までろくに包丁を握ったこともなく、必死に修業するところから始めたというお話がとても意外でした。そんな髙木さんだからこそ、きっと今、原田さんの言われたような次代を育成する取り組みですとか、料理人を憧れの仕事にしていくというふうな取り組みに繋がっているんだろうなと思います。いつの日か金沢が、日本の料理人と食の中心地になっていく、そんな未来を垣間見せていただいたような気がいたします。

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