ベトナムに商機を見出した二代目の挑戦。

第101回目放送

三谷産業株式会社 取締役会長

三谷 充さん

Profile

みたに・みつる/1954年、石川県金沢市生まれ。1977年、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業、1977年、『長瀬産業株式会社』に入社。1981年、『三谷産業株式会社』(創業は1928年。石炭の卸売りから始まり、現在は化学品、樹脂・エレクトロニクス、情報システム、空調設備事業、住宅設備機器、エネルギーの6つの事業を展開する)の取締役副社長に就任。1990年、代表取締役社長に就任。2007年、代表取締役会長に就任。2017年、取締役会長に就任。

Tad 原田さん、今ではたくさんの石川県の会社が海外に進出されています。この番組のゲストも海外進出している会社があります。
原田 そうですね。
Tad 今回のゲストの方は、27年前に石川県から海外進出した会社です。番組放送101回目の今回のゲストは『三谷産業株式会社』取締役会長の三谷 充さんです。
化学品、樹脂・エレクトロニクス、情報システム、空調設備工事、住宅設備機器、エネルギーと6つの事業領域をお持ちということですが、結局何をやっている会社なんですか?
三谷 わたしたちの会社はお客さまにサービスを提供するのではなくて、「お客さまが何を必要とするか」を考え、その必要とされているものを提供しています。ですから、もし身の回りにそれがなかったら「自分たちで作ってでも提供したい」そんな思いで仕事をしてきました。もともとは問屋ですからトレーディングですが、今は仕事のうちの3割くらいがメーカーの仕事なんじゃないでしょうかね。
Tad 会社四季報を見ると、「商社」と書かれていますね。
三谷 どこかにあてはめないと、ということで商社となっています。
原田 「お客さまが必要とするものであれば、どんなことでも」というスタンスでいらっしゃるんですね。
三谷 それもそうですし、「お客様にとって特別なものになりたい」というのが、わたしの会社に対する思いです。
Tad 1977年に『長瀬産業株式会社』に入社されていますが、どのような経緯で入社されたんですか?
三谷 実は別の会社に入社するつもりでいたんですが、父から「『長瀬産業』に決めてきたからここに入れ」ということで入社しました。『長瀬産業』は当社の20倍、30倍くらいの規模の会社なんですね。そんな会社で勉強させていただいて、自分としては次に何をすればいいのかを、そこで学ばせていただきました。
『長瀬産業』はもともと染料問屋なんです。それから化学品を扱ったり、化粧品を扱ったり、いろいろなことをされています。そういう中で自分たちが提供する商品を作ってもいいという、まさに当社の今やろうとしていることとよく似たスタイルでなさっている。だから、先達であり、わたしの先生でもあります。
原田 お父さまが創業者でいらっしゃるので2代目ということになるんですよね。
Tad それから1981年に『三谷産業株式会社』に入られて、いきなり取締役副社長に就任されました。
三谷 そんな実力はありません。なんで副社長にしたのかと、当時の専務や常務に聞いたら、あなたが階段を上がっていくたびにお祝いを持っていくのも面倒だから、最初から取締役にしたって。
Tad 一回で済むと。
原田 まさか、それは御冗談ですよね?
三谷 噓じゃないですよ(笑)
Tad そして1990年に代表取締役社長に就任ということですが、これはなにかきっかけがあったんですか?
三谷 父が心筋梗塞で倒れてしまったんです。その時、わたしは34歳だったと思いますが、本当は40歳くらいでバトンを渡してもらえたらと思っていたのが、予定よりも早まりました。
Tad ピンチヒッター的であったということですね。
三谷 そうですね、急遽。
Tad そして社長として17年活動される間に、海外進出をされています。
三谷産業グループのベトナムでの呼び名は「Aureole(オレオ)」。7つのグループ会社を設けている。
三谷 1994年からベトナムで仕事を始めました。1993年に誘われてベトナムに行ってみて「ここは仕事をしてもおもしろそうだな」と思いました。理由は2つございます。一つは、働いている皆さんの目がキラキラしていたんです。わたしが子どもの頃に周りにいたお兄さんたちが、「お金稼いでやるぞ」、「いい生活するぞ」といった時の目とよく似た目だったんです。こういう目の人たちと一緒に仕事がしたいなと思ったのと、もう一つは、ベトナム料理が美味しいからです。
原田 そうなんですね。食も魅力ということですか?
三谷 とても魅力的でした。それから1994年に、社員を「何か仕事を見つけておいで」と現地へ送り出しました。そしてたまたま日系企業で、ドライアイスを作りたい会社がそれを作れなくて赤字で大変困っていた会社がありまして、現地に行った人間が高圧ガスの免許を持っていたので、機械を調整してあげたんですね。そしたら何年も作れなくて困っていたのが急に作れるようになったので、それなら肩代わりしてくれないかということで、その会社を買収しました。そんなふうにスタートしてまいりました。
Tad 現在2471名(注:2021年9月12日時点)の方がベトナム関連従業員ということですが、今はどういうふうに事業を展開されているんですか?
三谷 最初の会社は10年の契約だったので終わってしまったんですが、その後、『富士通株式会社』が明石工場をはじめ日本の各地で作っていたプリント基板を全てベトナムに集約するということがありました。『富士通株式会社』にプリント基板を作るときに使う化学品を提供していましたので、それがそのままベトナムに行くということで、「何かお手伝いすることはありませんか」というふうにお尋ねしたんです。というのも、わたし共は昭和41年から『富士通株式会社』のディーラーをしており、相当長くお付き合いさせていただくなかで何でもお互いに言い合える間柄でしたので、「ちょうどいいところに来てくれた。購買に人を送り出す余裕はないので、お任せしたい」ということで、「それでは、わたしがさせていただきます」と言って、スタートしようとしたんです。
すると、実は日本の化学品の基準とベトナムの化学品の基準が、ベトナムの方が品質のブレが大きいということがわかりました。ところが日本基準の工場ですから品質はやはり揃っていなければいけない。それで、どうしても自分たちで完璧に調整しなければならないということで自分たちで工場を作りました。ただ、実を言いますと、日本でもそんなことはやってないんですね。
原田 ベトナムで初めてそれをやり始めたということですか?
三谷 はい。
原田 それはいろんなご苦労があったんじゃないでしょうか?
三谷 手探りで何とか作りました。
Tad その頃はインフラも整っていなかったりもしますよね。
三谷 ひどかったんですよ。ハノイからハイフォンに行こうと思ったら泥んこ道で、車のなかで話せないくらい揺れるんですよ。今では高速道路でシュッと行けますが。当時はそんな時代でした。
Tad ベトナム関連従業員が2471人に至るまで、この時点でもまだまだ距離があると思ういます。化学品タンクの工場を作ったりですとか。
三谷 その後、『富士通株式会社』の現地の会社の社長と話をしまして、ベトナム人のエンジニアがけっこう優秀だと聞きましたので、ソフトウェアのオフショアの会社と、建築図面を書く設計事務所と言いますか、コントラクト(契約)の方をきちっとやる設計事務所を作り、それからそれと同時期に、本当は『富士通株式会社』の工場で必要な自主製品を作ってやろうと思って、プラスチック製品を作る会社を3つ立ち上げました。
原田 またそれぞれの分野、違いますね。
Tad 本当に様々な分野で、それぞれの領域のご専門の方がいるんですね。
三谷 プラスチック成形はベトナムに行って始めました。
原田 しかも従業員がベトナムの方となると、意思疎通を含め、いろいろとご苦労がおありだったんじゃないですか?
三谷 苦労はありましたけれど、先程言いましたように最初のドライアイスの会社は、実はベトナムの国営企業とのジョイントベンチャーだったんです。そちらの方々に、「ベトナム人と仕事をするときは、こういうふうにしなさい」と、ずっと教わっていまして、それがあったのでやってみようかなという気になったんですね。それがもしなかったら、とっても怖くてできないですよね。
Tad それにしても、日本国内でも未経験の事業をベトナムで立ち上げるというのはすごい決断ですよね。
三谷 実は日本の優秀な企業のいろんなところのお力をお借りしていました。「エンジニアを貸してほしい」とか「運営の仕方を教えて」と相談をしました。「これからやるの?」と言われながら(笑)、かなり呆れられながら、でも教えてもらいながら。
Tad 総従業員数3540名のうち2500名弱ですから、その過半数がベトナム人やベトナム関係者ということになりますよね。ベトナムに進出したことを総括して振り返られると、これまでの27年間、『三谷産業株式会社』にとって、ベトナムはどんな存在ですか?
三谷 そうですね、今は当社にとって欠くべからざるエリアですね。それと同時に、コロナで今は動けませんが、コロナ前は本当にたくさんの社員が日本からベトナム、ベトナムから日本にたくさん行ったり来たりしていました。そういう意味で、当社の中でベトナムは、わたしも含めたほとんど社員の意識の中では国内出張と変わらない感じです。ですから、ベトナムも日本も祖国、みたいでありますね。
Tad 両方が祖国。
原田 そういう意味ではこれからもそのスタンスは続いていくでしょうし、やっぱりお互いに欠くべからざる存在としてあるということですね。
Tad プロフィールに戻らせていただくと、2007年に代表取締役会長に就任されて、2017年には取締役会長に就任されたっていうことですが、「代表」が外れるのは、何かきっかけがあったんですか?
三谷 幸い、よい後継者に恵まれまして、4代目の社長として安心できると判断しましたので、わたしが代表を持っている必要はないということで、代表をとりました。
4代目社長を紹介する三谷充さんと深々と頭を下げる4代目。
原田 なんかニコニコしてません?Tadさん。
Tad (笑)
原田 やっぱりそういうことなのかな、と思いながら聞いておりました。
Tad 会長として、これからこれをやってみたいということはありますか?
三谷 そりゃあもう、社長がやりたいことをサポートしていくのがわたしの仕事なんですが、『三谷産業株式会社』の会長としてではなく、三谷充個人として、実はまだやってないことが1個だけあります。2世という立場でしたので、わたしが手がけたことは引き継いだ仕事の拡張でしたので、一から創業してみたいですね。
この番組を聞いていますと、創業された方がたくさん出演されますよね。「うわ、羨ましいな」と思うんです。
原田 なるほど。刺激をたくさん受けられたんですね。
Tad 引き継ぐ者としては創業を経験していないということですね。いつか創業といいますか、新しいチャレンジができる機会を作ってあげたいな、と思いますけれども。
原田 そしてこの番組にお呼びすることもあるかもしれないですね。
Tad 創業者として、ですね。
三谷 うれしいな!!

ゲストが選んだ今回の一曲

ABBA

「Take A Chance On Me」

「金沢と東京の行き来の間、暇なんですよ。それでいろんな曲をよく聴いているんですね。ABBAの曲って、聴いていると元気になります」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに、『三谷産業株式会社』取締役会長、三谷 充さんをお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 はい、ベトナムでお仕事をされるにあたって、ベトナムの方のキラキラした目を見て一緒に仕事をすることを決めたというお話もありましたが、今の三谷さんも、すごく目がキラキラしていらっしゃって、創業なさる日も遠くないんじゃないかな、と思いました。
Tad 2代目だからやれなかったことがある、それが創業することだとおっしゃいましたが、ベトナム進出の時のエピソードをうかがうと、外国で、しかもインフラも整ってない頃のベトナムで、日本国内でもやったことのないことをやるとか、ゼロから工場を建てるとか、もうそれってほとんど創業じゃないかと思いました。三谷会長のまだまだ何か新しいことをやってるぞというこの勢いが、スタジオに余韻として残っているような気がします。66歳の三谷充会長、まだまだ現役として頑張ってほしいです。そのためにはご健康でいてください。あと、お酒はほどほどにしてほしいな、と思いますね。
原田 まるで息子さんみたいなコメントですよね。息子の愛を感じます。

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