前編

チャレンジし続ける歴史を受け継ぐ16代目。

第21回放送

株式会社浅田屋 代表取締役社長

浅田久太さん

Profile

あさだ・きゅうた/1968年、石川県金沢市生まれ。1983年、慶應義塾高等学校に入学後、カナダのオンタリオ州に留学。東京で就職し、1995年、『株式会社浅田屋』(旅館・レストラン経営)入社。店長、総支配人などを経て、2012年、代表取締役社長に就任。1659年創業の『浅田屋』16代目となる。『金沢市料理業組合』会長、『金沢市旅館ホテル協同組合』理事長なども務める。

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Tad 今回のゲストは『株式会社浅田屋』代表取締役社長の浅田久太さんです。私にとっては中学、高校、大学、すべての先輩でした。カナダに留学されていらっしゃったんですね。金沢の中学校を卒業されて、慶應義塾高等学校に入学され、親元ではなく、高校で一人暮らし、その後すぐに留学されたというのは何か理由があったんですか?
浅田 元々、慶應義塾高等学校に行く気があまりなくて、親が出た学校なので行かせたいという、そんな環境で育ったんですが、私は中学校の友達と同じ高校に行きたいと言ったんです。友達を大事にしたいなと思っていたので、慶応義塾高等学校は受験するけれど、受かっても行かないつもりでずっといました。ただ、受かってみると慶應義塾高等学校よりも東京で一人暮らしができるということにわくわくして、結局金沢の高校ではなく、東京に行ったんですね。その流れで留学するかと父に話をされたときに、金沢から東京に行くのも、カナダに行くのも大して変わらないかなと思って「行きます」と、軽く受けたというわけです。
慶應義塾高等学校の卒業式のときの写真。後列右が浅田社長。
原田 15歳のお子さんを一人で東京やカナダにと、ご両親としては結構ドキドキされていたのではと思うんですが?
浅田 3人姉弟で、姉も15歳でアメリカに留学していますし、弟は中学から東京に行っています。まるで獅子の子落としのような教育方針ですよね。
原田 そうなんですね。「ゆくゆくは後継ぎに」という話は当時あったんですか?
浅田 父は継がなくていいと言ってくれていて…「くれていて」というのはおかしいですかね(笑)。高校から東京へ、そしてカナダに行きましたが、その8年、9年の間に自分のやりたいことを見つけて来いと言われました。精一杯いろいろなことをして、いろいろなことを見て、自分が本当にしたいことを見つけてこいと。後を継がなくてもいいというふうに、ずっと言われてきました。
浅田社長が高校卒業後、カナダに留学していた頃の写真。
Tad 今や、『浅田屋』の代表として16代目。1659年創業ということですが、16代続く中で、結構有名なお話かもしれないですが、当初は今の旅館業ではなく、飛脚業だったとか。
浅田 そのあたりを不思議に思われるのかもしれませんが、実は浅田という名をいただいたのは1659年。その時は飛脚だったんですね。その後、1781年に「飛脚頭」になるんです。これが一つのターニングポイントなんですが、1867年になぜ飛脚から旅館に転じたか、これはすごくシンプルで、1867年の直後に明治維新があって、明治政府から「これから郵便局制度を作るので飛脚のみなさんは失業します。だから他の仕事を探してください」というお達しが、多分あったんですね。実は飛脚というと、手紙を運ぶイメージがあるかもしれませんが、実はお金も運んでいましたし、いわゆるATMの代わりのような、振り込みのようなこともやりますし、あとは命を救う薬、仕事を左右する契約書など、結構シビアなものを運んでもいたんです。お金や薬、契約書を運んでいる飛脚の方々が一般の方と同じ旅館に泊まっていたかというとそんなことはなくて、輩がやってきて奪われたりしたら大問題なので、飛脚の方々というのは全国各地の「飛脚頭」の家に泊まっていたらしいんです。
Tad なるほど。同業者なら安心だと。
浅田 そこなら大切な荷物も安心だというわけです。また、飛脚頭には全国の飛脚を泊めることともう一つ役割があって、それが換金だったんです。お金を運ぶと言っても、お金自体は重いものですから、代わりに札のようなものを運んで、それを飛脚頭の家に出せばお金に替わるというわけです。
Tad 為替のようなものを。
浅田 そうですね。ですから、1867年にお達しがあった時に、全国の飛脚頭のほとんどが、旅館業か銀行業に転身したらしいです。
原田 ある意味では飛脚業と旅館業は繋がっているということですよね。
浅田 一般の飛脚だったらなかった話で、「頭」だったからそうなったわけです。
明治10年(1877年)に発行された「金澤商店図絵」に掲載されている『浅田屋』。
Tad 明治が始まってからずっと、かなりの長い期間、旅館業を営んでいらっしゃるということですもんね。今日までの間、『浅田屋』グループというと、『六角堂』、『石亭』などいろいろなレストランを思い浮かべるんですが、昔は『金沢国際ホテル』も経営されていましたね。
浅田 お店をやってみて、辞めて、という繰り返しで、実は半年ぐらいで辞めたお店も数多くあります。レストランだけでなく、旅館も。私の祖父が、潰れかけの旅館を安く買い取ってリノベーションして高く売るという、そういうことが好きだったみたいで、もしかしたら祖父のDNAが父に伝わって、父はいろいろなレストランでトライ&エラーし続けたのかもしれませんね。
原田 時代がそうさせた部分もありますよね。例えばイタリアンレストランがまだ少ない時代に金沢に出店されたりだとか。
浅田 そうですね。まだ情報が少ない時代でしたから、新しいお店をどんどん広げていくのが楽しい時代だったんだろうなと思います。
Tad 『株式会社浅田屋』としていろいろな店舗を展開していこうと駆り立てているものは何なのか、訊いてみたいところです。
浅田 私がわかることは祖父の時代までで、その前については思いを馳せるしかないんですが、年表を見ていると、「チャレンジをすることが継続につながる」、「チャレンジしなかったら終わる」、ということをすごく感じます。私は16代目ですが、実は16代までの間に血は何度も途絶えているんです。例えばお子さんができなくて養子をとったり、お嫁さんを迎えたり、番頭さんと駆け落ちした代もいるみたいで、ドラマチックな感じなんですが、一つ言えるのは、どの代も「何があろうと次にパスを繋ぐ」という強い意志をもってチャレンジし続けたというのは感じますね。
Tad 血が途絶えているというのは、16代遡っても浅田さんの本来のご先祖様ではないということでしょうか?
浅田 一番直近でいうと、私の祖父は養子で、祖母はお嫁に来た人間なのです。
Tad 血の繋がりというよりも、『浅田屋』というのは…
浅田 「別の生き物」ですね。
Tad 『浅田屋』を改めて2020年に表現しようとすると、どんな旅館になりますか?
浅田 ありがとうございます。とってもいいパスをいただきました。まず元々の『浅田屋』というのは37室あった大衆旅館でした。やがて金沢に『東急ホテル』ができて、その後に『全日空ホテル』ができるという情報が入ってきて、このまま旅館をやっていても淘汰されるんじゃないかという不安があったんです。生き延びるためには形を変えなければいけない。ダーウィンの進化論の解釈本じゃないですが、生き残ったのは強い者でも賢い者でもない、環境の変化に応じることができた者が生き残れた――と、そんな大げさなことでもないんですが、うちの父はそれなりに考えて大衆旅館のままではだめだと、温泉旅館か料亭旅館のどちらかにしたいと思っていたらしく、そこで母が「どうせやるなら自分の目の行き届く範囲の、小さくてもきらりと光る旅館をやりたい」ということで、同じ場所で同じ面積で、37室から5室に変えたのが1977年ですね。
原田 料亭旅館に形態を変えたと。
浅田 そこから料亭旅館として精進していくわけなんですが、次は北陸新幹線がターニングポイントだったかと思います。北陸新幹線の金沢開業の時に感じたのは、外からやってくるお客様を全て受け入れると地元のお客様の入るスペースがなくなってしまうということでした。常連のお客様方から苦言をいただいて、私は5室あるうち1室を地元の方のための客室というふうに割り切って、旅館として4室に絞ったんです。たった1室のことなんですが、この先4室を3室にするのかどうかは…。
Tad 地元のお客様というのは、どういった方がいらっしゃるんでしょうか。北陸各県、他の県からもいらっしゃるんですか?
浅田 『浅田屋』は旅館としてもやっていますが、料亭としても営業しております。
Tad 料亭としての営業を1部屋分、確保しておくということですか?
浅田 はい。料亭として『浅田屋』を接待などでお使いいただく常連のお客様のために、1部屋キープしようというわけです。
原田 金沢の食文化は素晴らしいものがあります。料亭旅館として存在する意義というのはすごく大きいように思います。
浅田 金沢は本当に食が豊富ですよね。全く知らないお店にふらっと入ってもはずれがないと言いますか、こんな街はなかなかないと思います。よくMitaniさんのお父様にもお会いしますが、お寿司屋さんの数も多いですよね。
原田 そういう中で脈々とチャレンジを繰り返し、時代を見据えながら今に至るというところでしょうか。

ゲストが選んだ今回の一曲

イズラエル・カマカヴィヴォオレ

「In This Life」

「ベット・ミドラーという有名な歌手の曲をハワイのシンガーがカバーしています。私は19歳の時に大病をして、2年ぐらい病院に引きこもっていた時期があります。今、自分の人生に与えられているものに最大限に感謝しようというような歌詞なんですが、いろいろなことをネガティブに考えがちな時に、もっと欲しいだとか、もっとこうすればよかった、もっとこうなって欲しかったというような自分のモヤモヤした気持ちをこの曲は吹き飛ばしてくれて、今目の前にあるものに感謝して過ごそうという穏やかな気持ちにさせてくれます」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに『株式会社浅田屋』代表取締役社長の浅田久太さんをお迎えしましたが、いかがでしたか、原田さん。
原田 浅田さんのお話で『浅田屋』は「別の生き物」という表現がありましたが、16代目として、その時々のトップの方がチャレンジされてきた歴史に押し潰されそうになるのではなく、肝が据わっていると言いますか、冷静に時代を見ながら「これからどうしようか」と考えていらっしゃるんだなということがすごく伝わってきました。
Tad 「小さくてもきらりと光る」というお話がありましたが、16代、1659年創業で360年以上続いているわけですよね。その間に、もちろん創業時のビジネスはなくなっていて、レストラン、旅館、ホテルとしてもいろいろなチャレンジをされてこられました。周囲の環境や他のホテル、他のレストランの配置、分布などの変化に合わせてダイナミックに業態変更にチャレンジされてきたということが今の『浅田屋』の軸になっていますよね。そんなふうに存在意義を時代に合わせてダイナミックに定義し直してこられたから、また、存在意義を柔軟に定義できる会社だから、長く続いていらっしゃるのかなと、そんなふうに感じました。

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