前編

数百年もの歴史の中で、激動する時代に合わせてビジネスを変革。

第80回放送

株式会社小林製作所 専務取締役

小林靖弘さん

Profile

こばやし・やすひろ/1983年、石川県金沢市生まれ。金沢大学附属高等学校を卒業後、慶應義塾大学理工学部、慶應義塾大学大学院理学研究科を卒業。2009年、『アクセンチュア株式会社』に入社、戦略コンサルティングチームに所属し、国や通信大手、大手電機メーカー、製薬企業などの経営改革に従事。その後、大手IT企業の事業企画に参画、海外SNSなどの日本展開を担当後、起業も。2013年、『株式会社小林製作所』(創業は1919年。金属加工業、精密薄物板金において県内トップ。経済産業省の「地域未来牽引企業」にも認定されている)取締役に就任、2018年より現職。

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Tad 今回のゲストは、『株式会社小林製作所』専務取締役、小林 靖弘さんです。『株式会社小林製作所』は代々、小林家の経営だと思いますが、まず事業の内容をお聞きしたいと思います。薄物の精密板金が県内1位ということですが、実際どういうものを作られているんでしょうか?
小林 板金ってなかなか伝わらないと思うんですが、板金ってどういうイメージがありますか?
原田 やっぱり、車?
小林 そうですよね。板金というのは加工法の名前で、金属板を折り曲げたり、くり抜いたり、くっつけたりしていろんな形を作る手法自体のことを板金といいます。業態として見ると、自動車板金というのが一番有名で、あとは建築向け板金というのも世の中にたくさんあります。板金ってすごく広い概念で、その中に精密板金という分野があります。いろんな機械の部材をつくるのが精密板金なんです。
機械って、要するに「箱と中身」なんです。ボディ部分と中に取り付く電子部品。これで世の中のすべての機械ができているんですが、その箱の部分って今時はプラスチックか金属しかないんですね。
Tad そうなんですね。
小林 思い起こしていただくと箱の部分はほぼプラスチックと金属でできていると思うんです。当社はその金属のボディを作る会社です。いろんな機械のボディを金属で作っています。
原田 身近なものでいうと、どんなものがありますか?
小林 本当に多岐にわたります。例えば、電車だと本体自体もそうですけど、実際に当社に依頼があったものですと、例えば電車のドアの部分とか、「プシュー」っていいながら開く機構があるじゃないですか、あのあたりとか、あと電車の下にも色んなボックスがついているんですけど、あれもほとんど板金でできていますし、あと駅に設置されているホームドアとか。他にも輸送機械というくくりで当社が関わったものですと、バスの運賃箱とか、船のドアとか。歩いていて街でよく見るものだと、例えばATMは精密な板金部材がとても多いです。外見とかはほぼ板金ですね。コンピュータ関連でいうと、サーバなどの大きいパソコンのボディ部分や、あとはコンピュータチップを製造する半導体製造装置など、ほとんど板金ですね。他にも工作機械、医療機械、食品機器。アーティストによる街のオブジェ、ああいったものにも意外と当社が絡んでいることがあります。
Tad えっ、街のアート作品まで。
原田 それって1つしか作らないわけですよね。それでもいいんですか?
小林 そうです。当社が一個から作ります。
Tad 大量生産の品物から一点物まで幅広く。
小林 大量生産するものは意外と少ないんですが。多かったとしても数百個以上は作らないですね。少量多品種のカスタマイズ性の高い機械のボディをいろいろ作っています。
板金の技術を活かした機械製造事業の現場の様子。
Tad なるほど。そんな『株式会社小林製作所』ですが、実はとても歴史が古いと伺っています。どこまで遡れるのでしょうか?
原田 創業が1919年。これでも十分歴史は古いと思いますが、更に遡れるんですか?
小林 一族としては1600年頃まで遡ることができます。うちの家系は、ずっと鉄の加工をやっているんです。
原田 そうなんですか!? 歴史の教科書でしか見たことのない年代ですね。
小林 そうなんです。能登に小林猪兵衛という人物がいまして。能登は鉄の多い優良な土地だったんです。赤い土の岩壁が有名ですよね。あれに鉄分が入っているんですが、なかなか良い土地だということで、猪兵衛がそこで大砲などのようなさまざまな武具や、神具、神事の際に使う楯や鉾や鐘、五重塔の先に付いているようなもの、あとは生活金物、鍋、釜といったものなどをずっと作り続けていたと聞いています。武器とか神具とかを作ることができる鋳物師は、天皇に厳格に管理されていたんです。基本的には全部許認可制で、一部の認められた人が独占的に営業していいという業種だったそうです。ですから、常に天皇や、当時の実力者であった貴族とか武家とかとビジネスをしてきた経緯がございまして、前田利家公が1600年頃、ちょうど能登の方にお越しになった時に「塩のビジネス」を――
原田 塩ですか。
小林 はい。これからの時代は塩のビジネスだということで、前田家が当家などに依頼し、大きな塩の釜を作ったんです。それを前田家が買い取り、沿岸の人々にリースでどんどん配っていって、塩ビジネスを始めてみないかと前田家が推し進めていきました。それで農民がたくさん塩を作って、前田家は塩釜のリース料で儲かったようです。そのリース料の一部は当家にも支払われていましたし、またそれで生まれたたくさんの塩を、今度は能登の穴水から高岡のあたりまで小舟で運んでいたんです。そこで貿易もするんですが、貿易業というものも当家が担当していたと聞いています。
原田 幅広いですね。
かつて石川県穴水町の中居地区で栄えていた能登中居鋳物に関する書物。小林一族にまつわる資料も掲載されている。
Tad すごいですね。そこから板金まで、まだ距離があるような感じがしますが、塩釜からどういうものを経て板金へと変わっていったのでしょうか?
小林 時代は明治に入りまして。幕藩体制が崩壊したことで皇族の特権が廃止されまして、そこまで独占的に鋳物師がさせてもらっていたものが「誰でもやっていい」となったわけです。金沢や高岡に大量かつ上手に製品を作れる人がたくさん現れたらしいですが、そういう状況に押され、全然立ちいかなくなってしまって、借金まみれになったというふうに聞いています。
それで困り果ててしまって、私の曾祖父にあたる小林賰三が一念発起して金沢にやってきまして、金物屋さんを開きました。それからしばらくビジネスをしていたんですが、なかなかできた人物だったらしく、地域の豪商に見初められて「お金を出すからやってみないか」というふうに言われたのがきっかけでネジ工場を建てたんです。1919年のことです。当社の設立を尋ねられれば1919年と言いますが、その年に初めて『小林ボルト株式会社』という会社としてネジ屋を始めたというのが、当社の創業になります。
『小林ボルト株式会社』として、創業当初に使用していた加工機。
Tad そのネジは、どういうところで使われていたんですか?
小林 最初は繊維機械、車両、工作機械用に作られていたんですが、どんどん戦争の案件が増えていく時代になりまして、それ以降はずっと舞鶴の海軍工場に、軍船に使うボルトを馬車で送っていたというふうに聞いています。それが大ヒットしまして、社員300人くらいにまで拡大したそうです。
原田 時代に合わせて、ニーズのあるものを作っていったわけですね。
小林 そうです。面白いなと思うんですよね。天皇から鉾や楯、神具、武器などを依頼されて作った時代もあれば、加賀藩と一緒にジョイントベンチャー的に「一緒に塩のビジネスをやろうよ」といって塩釜を作り、今度は海軍向けに一生懸命ボルトを作る時代へ―――本当に激動の歴史だなと思います。
Tad 板金の事業に乗り出したのはいつ頃なんですか?
小林 終戦を迎えて、もう軍需産業では食べていけないということで、当社は一旦離散しているんです。休業を2年間して、社員も本当にバラバラになってしまって、数人しか残れない中で、これからは平和産業をやろうと模索していた時代があるんですね。それで今、小松市にある『小松電子株式会社』から「板金事業をやってみないか」というお声掛けを当社二代目が受けまして、そこから板金事業を始めました。
Tad なるほど。
原田 そうすると板金というのは細々とやり始めたけれども、だんだんとそれがまた軌道に乗ってきたわけですね。
小林 そうですね。本当に最初は10人やそこらしかいなくて、本当に苦しい時代が長かったと聞いています。
原田 その中で今のような注目される企業になるにあたって、何か認められたものというのは?
小林 板金業界にもITブームが来たんです。少し話が逸れますが、ITに関連する半導体関係のコンピュータチップって、台湾か韓国、中国とかが非常に強いんですね。製造という意味では日本勢は負けています。あと開発だと、例えば「Intel」、「Apple」、「SAMSUNG」とかにボロ負けしています。でもいざ作ろうと思うと日本から半導体製造装置という半導体を作る機械を買わないと、彼らはコンピュータチップを製造できない。実は日本は、この分野においてはシェア4割くらい取っているんですよ。
原田 そうなんですか。
小林 自動車に次ぐ大事な産業と言われています。日本で、ここ20~30年、そういう市場がぐーっと立ち上がったんです。その時に、ほとんどの町工場や板金屋さんはその仕事を断ったというふうに聞いています。
コンピュータチップを作る半導体製造装置の一例。
Tad それは、難しすぎるということですか?
小林 それもそうなんですが、当時のITって「今年は仕事があるけど、来年以降はないです」というような感じだったのが難しかったようです。
Tad なるほど。
小林 そういうのがすごく多くて需給の波についていくのが大変だったということと、あと、おっしゃられたように、ものすごく精密だったり、ものすごく配送が面倒くさかったり…設備もたくさん要るので、場所と人が必要だったんです。世の中の町工場ってみんな当時はいわゆる「さんちゃん(※)」で東京とか東大阪の町工場で狭苦しい中でやっているわけですね。これ以上土地もなければ人も集められないみたいなのが世の町工場のほとんどだったんですが、当社は「どんだけでも食らいつきます。どんな変動でも我慢しますし、いろんな工夫で面倒くさいことを乗り越えます。プラス、人や土地も増やしていきます」ということを頑張ってアピールして、それでたくさんの半導体関係のお客様に支持されまして、ものすごく事業を拡大しているというのがここ20~30年の流れになります。
Tad なるほど。「こんな会社が石川県にあるなんて」という感じです。ちょっと歴史を振り返るだけでも重厚感に圧倒されました。



(※)爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんの三人で農業をし、父ちゃんは外に働きに出ていた兼業農家を「さんちゃん農家」と言ったことから、父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃんなどいわゆる家族経営の町工場を指して「さんちゃん工場」と称することがある。

ゲストが選んだ今回の一曲

ももいろクローバーZ

「猛烈宇宙交響曲・第七楽章 無限の愛」

「実は、ももクロの大ファンだった時代がありまして、全てのイベントを追っかけて、レニちゃんやカナコがどこで何を話したかまで、全部を記憶していた時代があったんです。これは彼女たちの代表曲なんですが、“アイドル界のボヘミアン・ラプソディ”と呼ばれていて非常に変化の激しい曲なんです。まさに当社の歴史を紐解いた時にすごいシンパシーを感じる曲であると共に、すごく愛に溢れた曲なんですね。語る機会はなかったですが、当社はすごく愛情深い会社なんです。本当に当社っぽい曲だと思っています」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回は『株式会社小林製作所』専務取締役、小林靖弘さんをお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 会社の歴史を紐解いていただきましたけれども、1600年頃からそれぞれの時代に応じて革新的なことに取り組んでこられて、今もチャレンジを続けていらっしゃる。「こんなにすごい会社があったんだな」と驚きました。Mitaniさんは、いかがでしたか。
Tad 時の天皇家であるとか、前田家とジョイントベンチャーをやったりとか、明治政府の海軍、戦後の工業化時代、そして現在のIT産業と、『株式会社小林製作所』の歴史をうかがってきましたが、まさしく激動する時代に合わせて社会システムも根本から変わり、ビジネスのやり方も根本から変えなければいけないという風に、小林家と『株式会社小林製作所』も激動の歩みでしたね。次回は、今の『株式会社小林製作所』や小林専務が見据えていらっしゃる未来、ビジョンについてもうかがっていきたいと思います。

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