前編

「加賀棒茶」のイノベーティブな歴史。

第88回放送

株式会社丸八製茶場

代表取締役 丸谷 誠慶

Profile

まるや・まさちかさん/1978年、石川県加賀市生まれ。小松高等学校を卒業後、大阪大学基礎工学部に進学。2004年、大阪大学大学院を修了し、『富士通テン株式会社』(現『株式会社デンソーテン』)に入社、マイコンのソフトウェア開発に携わる。2008年、家業である『株式会社丸八製茶場』(創業は1863年。ほうじ茶を中心とした日本茶の製造・販売)に入社。2013年、代表取締役に就任。

Tad 今回のゲストは『株式会社丸八製茶場』代表取締役、丸谷 誠慶さんです。以前本社に伺ったことがありまして、とても素敵な工場とお茶室でした。加賀棒茶の聞茶(ききちゃ)もさせていただきました。
原田 それはなかなかできない体験ですね。加賀棒茶にもいろいろあるということですよね。
丸谷 そうですね。ほうじ茶をいくつかお渡ししまして、味比べをしていただきました。
Tad 言われると確かに…という違いがあったりしました。実は加賀棒茶のたどった歴史、それから過去、現在、未来は、とってもイノベーティブなんですよね。『株式会社丸八製茶場』の創業は1863年、文久3年ということで大変な歴史がおありですが、最初から加賀棒茶を作っておられたのでしょうか?
丸谷 いえ、茶農家として創業しています。
Tad えっ、農家?
原田 お茶の産地だったということですか?
丸谷 江戸時代は加賀藩を前田家が治めていて、工芸や文化を奨励する方々だったわけですが、その中にお茶もありまして、お茶を普及させるためには地元でもお茶作りをすべきだということで、推奨していました。それを機に先祖がお茶作りを始めました。
Tad なるほど。それが今のような形になったわけですね。今はやはり「加賀棒茶の丸八製茶場」というイメージがありますが、最初は茶畑・茶園管理と、製茶自体もされていたということでしょうか?
丸谷 初代、2代目まではそうです。茶畑を管理して、お茶そのものを栽培して作るということをしていました。後は時代の変化もありましたが、特に戦争が大きいと聞いていますけれども、茶畑というのは面積をとる割にお腹の足しにならないんですよね。
Tad 食べるほどではないですもんね。
丸谷 ですから、食料が必要な時にどんどん改植されて、芋畑や田んぼに変わっていったりして、石川県内の茶畑がどんどん廃れていってしまいまして、ほとんどなくなったというのが昭和の初め頃だったというふうに聞いています。
原田 その後は業態を変えて、続いていくわけですよね。
丸谷 そうですね。茶畑がなくなってしまえば、我々も仕事がなくなってしまいますので。お茶そのものを作るというところから、お茶の原料を仕入れて、加工して、販売をしていく、そんな形に徐々に切り替わっていくというタイミングですね。
Tad 国内の有名な産地からも原料を仕入れていたんですか?
丸谷 そうです。国内もそうですし、祖父の時代であれば、安い原料を求めて、中国や台湾、ベトナムからも輸入したということを聞いております。
Tad そういう時代もあったんですね。その時は、棒茶ではないんですよね。
丸谷 棒茶、いわゆるお茶の茎を使ったほうじ茶が誕生したのが明治の中頃と言われておりまして、金沢のお茶屋さんが茎のほうじ茶を初めて商品化したそうです。もともと石川県内は明治時代も広範囲でお茶を作っていたんですが、お茶を摘むと、葉っぱの部分は緑茶として売られていき、茎の部分が使い道のない部分として残るんです。それをなんとか有効に使いたいということで、金沢のお茶屋さんが茎の部分をほうじ茶にして、商品として売り出したんです。これが、明治の中頃と言われております。
原田 茶摘みというと葉っぱだけ摘んでいると思っていたのですが、茎の部分も摘むんですか?
丸谷 お茶を摘むとき、特に日本茶は葉っぱに傷をつけたくないので、一芯二葉とか、一芯三葉と言って新芽の茎に二枚、三枚の葉っぱがついた状態で、その茎の部分を折ると言いますか、葉っぱを傷つけないように摘み取るのが一般的な摘み方になります。
Tad 最後に加工される時は葉っぱだけを使うんですか?
丸谷 そうです。最後に摘み取ったものを蒸気で蒸して、揉みこんで乾燥させるんですが、乾燥した後に、葉っぱと茎を選り分けまして、葉っぱだけを商品として売ります。
原田 最終段階で葉と茎が離れるということですか?
丸谷 そうなんです。ですから、茎がいらない部分として大量に余るわけです。使い道がなければ廃棄するしかないんですが、それをなんとか商品に変えたいということで、金沢ではほうじ茶にしたというわけです。
Tad 『株式会社丸八製茶場』も加賀棒茶を作り始めたのはいつ頃だったのでしょうか?
丸谷 茎のほうじ茶が初めて作られたのは明治の中頃だったんですが、弊社は少し遅れまして、大正に入ってからと聞いております。もともといろんな商品名で、石川県内の茶業者さんが茎のほうじ茶を製品化していたんですが、我々は商品化するときに、地名である加賀というものと、茶業界では茎の部分を「棒」とか「棒茶」と呼ぶんですが、これを単純にくっつけまして、たまたま「加賀棒茶」と言い始めたというわけです。
Tad なるほど。
原田 もとは捨てる部分を使っているというだけあって、非常にお安いお茶として出回っていたということですよね。
丸谷 そうですね。もともと廃棄する部分なので、タダ同然で原料が手に入る。それを少し加工して商品にできますので、非常に安価だったようです。当時の石川県のみなさんもお客さまをお迎えする際はやっぱり緑茶をお出ししていたんです。でも家族ではいつもいいお茶を飲んでいられないと。そこに棒茶が誕生しまして、非常に芳ばしく安価に飲めるので家族で飲むにはこれで十分だということで、家庭用のお茶として、茎のほうじ茶が浸透していく。これが石川県でよく飲まれる茎のほうじ茶の経緯ですね。
丸八製茶場で一番人気商品の献上加賀棒茶。パッケージのデザインと文字は祖父・丸谷誠長のもの。
Tad 石川県のお土産屋さんに行くと「献上加賀棒茶」はすごく高級そうなパッケージに入っていますね。それはなぜですか?最初は身近なお茶として出てきたけれども、どこかの時点で高級路線に入っていったということですか?
丸谷 私の祖父の代までは、いわゆる昔ながらの茎のほうじ茶をいかに安く作るかということを一番重視していた時代でもありまして、時代的にもそれがマッチしていたというか、非常に安価な茎のほうじ茶が、たくさん売れた時代でもありました。祖父の代はそれで上手くいったんですが、父が戻ってきた昭和50年代くらいには消費者の嗜好も少しずつ変わってきまして、安ければ良いという時代から、「良いものがほしい」という流れの中で、祖父のやり方がうまくいかなくて、徐々に売り上げが下がるという事態になりました。父も「これは何をどうすれば良いのか?」と、それが中々わからない時代だったらしいです。そうこうしているうちに、昭和58年(1983年)に全国植樹祭で昭和天皇が石川県にお見えになられました。その時の陛下のご宿泊先が加賀の山代温泉の旅館でして、弊社と取引があったおかげもありまして、旅館の方から「今度、陛下が宿泊されるから、一番良いお茶を持ってきてほしい」という注文が入ったんです。当時、誰のイメージから見ても良いお茶といえば玉露であり、いわゆる緑茶をイメージしていまして「どのお茶をお持ちすればいいか」となったわけです。そのあと、旅館の方から連絡がありまして、陛下は当時80歳を超えておられて刺激のあるお茶は一切飲めず「緑茶はすべて飲めません」というお話でした。ただ、「ほうじ茶は好んで飲まれるらしい」ということで、「最高のほうじ茶を持って来てください」という依頼に変わりました。
昭和50年代の丸八製茶場本店。これまでのものつくりの方針を「より良いものつくり」へと転換する時期をむかえていたころ。
Tad すごいですね。最高の舞台が用意されましたね。
原田 「どうしよう?」と思われませんでしたか?今までのほうじ茶のイメージを考えると。
丸谷 当時も今もそうですが、茶業界的には、ほうじ茶の原料というのは安いものなんですよね。なかなか緑茶として売れないようなものを加工して、なんとか商品にするというのが、一般的なほうじ茶だったので、最高のほうじ茶と言われてもなかなかイメージができなかった。そこで当時、祖父のアイデアになるんですが、陛下からせっかくいただいたお題であれば、茶業界がやらなかったことにチャレンジしようということで、いわゆる新茶、つまり、その年に一番早く摘まれるお茶をあえてほうじ茶にしようということになりました。当時も大正時代から加賀棒茶という茎のほうじ茶を作っていましたので、せっかくだから茎のほうじ茶にこだわって、「新茶の茎を原料として集めて、陛下に届けようじゃないか」となり、作ったのがこの1983年に陛下に献上した棒茶なんです。
Tad 加賀棒茶を作るにあたっては、別に原料を決めて取り寄せるわけではなかったんですね。
丸谷 もともとはいかに安価な原料を使うかということで、国内のものも使ったと思うんですが、海外の原料、それも茎の部分を大量に仕入れて、焙煎して、棒茶を作るということを当たり前にやっていたんです。
Tad でも、一番茶をほうじ茶にしようと?
丸谷 はい。今まで我々もやったことがなかったんですが、陛下にお届けするためにそこまでこだわったものを作ってみようということで、きっかけとなったのはこのタイミングでしたね。
Tad この「献上加賀棒茶」、私は初めていただいたときに、今までの棒茶のイメージがまったく変わりました。ほうじ茶って色がもっと茶色っぽい感じですが、こちらはお茶のエキスが本当に出ているのか心配になるほどの綺麗な琥珀色で、飲むとすごく香りが立って、今まで飲んだことがないなと思いました。焙煎の仕方とかも工夫されて生み出されたものなんですか?
お湯出しはもちろん、浅炒りの献上加賀棒茶は水出しでも美しい水色と香りが楽しめる。
丸谷 いわゆる、一般的なほうじ茶というのは原料があまり良くないものを使うんですね。良くない原料であれば、焙煎度を強めて、焦がしてしまって、その味を隠さないと、あまりおいしくなかったわけです。芳ばしさでカバーすると言いますか…。それが一般的なほうじ茶なので、ほうじ茶というと茶色、焦げてるくらいの焦げ感をつけるというのが一般的だったんですが、たまたま、このようなきっかけをいただいて良い原料を使ってほうじ茶を作るということになったら、良い原料はもともと緑茶で飲んでもおいしいので、本来の風味を残しながら、よりほうじ茶としておいしさを求めた時に浅炒りが非常にマッチしたんです。すごく浅く炒ることで、原料自体のおいしさを残せますし、そこに焙煎という香りづけもできます。それが陛下に献上したときにマッチしたわけです。そこで我々も浅炒りを狙うようになっていきました。
遠赤外線セラミックバーナーで芯からふっくらと炒り上げた「献上加賀棒茶」。浅炒りの焙煎方法で芳ばしい香りとすっきりした味わいが際立つ。
Tad なるほど。陛下のご好評をいただいたことをきっかけにして、「献上加賀棒茶」が誕生したんですね。
丸谷 そうです。
Tad 「常識を覆すことの連続」という感じがしますね。
原田 本当ですね。このご縁があって、あのお茶ができたんだとしたらすごいチャンスだったんですね。
丸谷 ここはおそらく祖父と父の機転の利かせ方と言いますか、判断がよかったと思うんですが、陛下に献上するだけでこの案件は終わっていたはずだったんです。ですが、そこから商品化に繋げて、より品質の高いほうじ茶を目指していこうと思いっきり方向転換しているんですよね。それがなかったら、おそらく今、我々もここまで残ってなかったかもしれないですし、その時の決断、判断は今となって思えば非常にありがたかったなと思いますね。

ゲストが選んだ今回の一曲

Chuck Berry

「Johnny B. Goode」

「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画で主人公がこの曲を演奏するシーンがありまして、それで私も知ったんです。小さい頃から車とかSFにとても興味がありまして、それがきっかけになったのかわからないですが理系に進んだというのもあります。そのくらいに車好き、SF好きにはたまらない映画なんですが、その中で主人公がこの曲を演奏していて、しかもすごくかっこよく見えて、非常に印象に残っています」

トークを終えてAfter talk

Tad 今回はゲストに『株式会社丸八製茶場』代表取締役社長、丸谷 誠慶さんをお迎えしましたけれども、いかがでしたか、原田さん。
原田 毎日食後に飲んでるほうじ茶にそんな歴史や変化があったということは知らなかったですし、「献上加賀棒茶」誕生秘話、すごくイノベーティブだなと思って聞いていました。
Tad 「イノベーション」ってすごく難しい言葉ですし、あまり意味もはっきりと分からないところもあると思いますが、やはり価値の転換、価値の創造という部分がすごく重要な要素だと言われています。もともと捨てる部分であった茎を焙煎するということで、低刺激で芳ばしい味わいで求めやすく、日常的に飲めるお茶に生まれ変わらせたというのは、たぶん、地元に茶畑がなくなってしまったということが、流通コストもかかってきますし、緑茶が手に入りにくくなったというのも一因かなとも察することができます。やがて消費者の嗜好が経済成長とともに変化して、昭和天皇への献上をきっかけに、良い原料・高い品質の棒茶作りから「高級品質」というキーワードにたどり着かれて、今では加賀棒茶はお土産や贈り物といった用途にも選ばれるくらいに上質なもの、高級なものというイメージに変化したわけですが、やはり会社として苦しい時期であったからこそ価値の転換を機とされて、見事に成功されてきたのかなと思いました。

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